先人の教えを守る
 

9年前、平成16年に発生した「スマトラ島沖地震」(M9.1)の犠牲者は22万人を超え、その多くが大津波によるものであった。
また、2年半前の平成23年に我が国で発生した「東日本大震災」(M9.0)も、1万8千5百人を超える死・行方不明者の多くは、巨大津波による溺死者であった。
いずれの地震も津波が木々や住家を押し倒し、逃げ迷う人々に襲いかかる恐ろしい映像が流れた。その悲惨な状況は、まだ多くの人々の脳裏に焼き付いていることだろう。
ところが、残念なことにすでに風化が懸念されている。
皆さんは「スマトラ島沖地震」の時、奇跡とも思える出来事が震源地に近いシムル島であったことをご存じだろうか。7万8千人の村で、津波による死者が、わずか7人にとどまった島の話である。
シムル島では97年前(1907年)に発生した地震で、津波によって数千人が尊い命を失った。村では「地震発生後、海の水が引いたら山へ逃げろ」という伝えが先代から語り継がれてきた。この「先人の教え」を忠実に守って一斉に高台へ逃げたので、被害が最小限に留まったということである。
私たちは「津波は恐ろしい」という認識を持っている。
しかし、シムル島民のように語り継ぎ、いざというとき避難ができるような伝達や心構えが備わっているだろうか。
歴史災害から学び、先人たちが残した数々の教訓を活かすとともに、震災体験を語り継ぐことこそ、今後の災害を最小限度に抑えることにつながるのではないだろうか。

 
   東日本大震災だけでなく、元禄地震や関東大震災など、過去の災害を振り返り、家庭や地域における防災対策に活かしましょう。
■津波の恐ろしさ
~元禄地震から310年~

今から310年前の冬、「元禄地震」(M7.9~8.2)が発生した。九十九里浜に大津波が襲い、本市の沿岸部でも300人以上の尊い命が奪われた。震源地から100Kmも離れ、逃げる時間はあったと思われるが未曾有の惨事となった。
九十九里浜南部には、「津波代様(つなしろさま)」、「無縁塚津波精霊様」、「百人塚」などと呼ばれている津波碑などが多数残っている。本市北今泉の等覚寺墓地にも「海辺流水六三人精霊」と刻字された津波碑(写真は、広報参照)がある。称徳5年(1715年)、十三回忌の命日に村人によって建立されたものである。
九十九里浜で多くの被害が出たその要因は、①地震・津波の発生が12月31日の夜中であったこと。②津波推定高は5~6mと高く、三度(波)襲ってきたこと。③真亀川、堀川、南白亀川の周辺は内陸まで湿地帯が広がっていたこと。④元禄期はイワシの豊漁期で、沿岸には多数の漁民などが生活していたことなどがあげられる。最悪の諸条件が重なった災害で、本市における防災対策の重要な資料を提供している。

■家屋倒壊・火災と液状化
~関東大震災から90年~
今日、9月1日(防災の日)は、「関東大震災」(M7.9)の発生からちょうど90年になる。
震度7の揺れが地盤の緩い東京を襲ったのは、午前11時58分46秒で、火を取り扱う昼食の時間帯と重なったことから、木造家屋の倒壊は各地で火災を発生させ、類を見ない甚大な被害をもたらした。
また、地震による津波被害は九十九里浜ではほとんどなかったが、館山市相浜では9mの津波が観測されている。
なお、(図は広報参照)が示すように、本震から5分間に2回の大きな余震があり、翌日には二度、M7以上の地震が立て続けに発生した。県下で犠牲となった1,346人のうち93%が住家倒壊による圧死であったと県発行の防災誌にある。
全体の死・行方不明者は約10万5千人、焼失家屋44万7千戸という未曾有の被害の爪痕は、各地に残る「震災記念碑」が無言で語っている。
■防災の日に意識を高める
真夏の関東大震災、真冬の元禄地震という二つの事例から、災害発生時の時期や時間帯など、被害が甚大となった背景を参考にすることは、今後の 防災対策を進めるうえで重要である。特に、寒中の就寝時における災害は想定から外すことはできない。
歴史地震から学び、近い将来必ず到来する災害に備えて、家庭・職場・学校等で語り合うことが、「転ばぬ先の杖」となるのではないだろうか。
災害への備えは、明日からにしようでは遅い。
広報 大網白里 平成25年9月号で 市郷土史研究会 古山豊氏が随筆されています。