1 7 世 紀 頃
十七世紀は、戦乱と飢饉に明け暮れた戦国時代が終わって、徳川氏のもとで全国に平和が訪れた時代である。村人たちは、農耕に専念でき、領主は河川の治水工事や用水路の開削など農業基盤の整備に力点を置いた。その結果、全国の耕地面積は飛躍的に増大し、それに伴って人口も急増した。十七世紀は、日本史上まれな高度成長の時代だったのである。
惣百姓(百姓全員のこと)が、メンバーの勝手な行為を咎めて、村の平穏の維持に努めていたようだ。
延宝四(1676)年に、七渡村などから本小轡村庄屋加左衛門に対して、半左衛門が「不届きなる我が儘」者であるとの訴えが出され、七渡村などはさらに本小轡村の領主渡辺氏へも訴えようとした。
この一件で、惣百姓の意向が争いの解決のあり方に大きく関わっていたといえる。現在もこのあたりでは、家と家の付き合いが重要視されています。
惣百姓は村の平和維持の唯一の主体ではなかったが、それに大きく関わっていたといえるようだ。
村内では、惣百姓は相互に助け合い、村内の問題について自主的解決にあたるなど、構成メンバーの家の存続を図り、村の平穏を維持するという機能を持っていた。
上記のようにここ七渡村でも同様に惣百姓が取り仕切っていたと思われる。
天和三(1683)年に、組頭ほか八人の百姓が、庄屋・組頭の二人を領主に訴えるという村方騒動が起こった。
三月二十五日には、近隣村々の者、蓮成寺・龍鑑寺(七渡村)の住職、江戸谷町の久兵衛らが仲裁に入って内済(和解)で解決している。
この頃の村人は、零細な土地所有者が多かったらしく、各家の経営は、不安定であり、村人たちは、連判金などの借金によってかろうじて経営を維持していたらしい。
また、江戸時代の百姓は、二重の意味で農民と同義ではない。第一に、百姓の中には、漁業・林業・商工業など多様な職業に携わっている人々がかなりの程度含まれていて、農業のみに従事していたのではなかった。
第二に、農業をすることが即百姓であるということにはならなかった。
百姓とは、一応土地を所持して自立した経営を営み、領主に対して年貢などの負担を果たし、村と領主の双方から百姓と認められた者に与えられる身分呼称であった。
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