無格社七渡水主神社  三つ巴

 

 本殿左から水主神社正面南向き本殿右から

■ 鎮 座 地 ■

JR
外房線本納駅から南東に約四.五`bの左手にあり、このあたりでは大きな神社です。
北緯:35度27分35秒22  東経:140度19分7秒85

■ 祭 神 ■

罔象女神(みずはのめのかみ)

とされています。

■ 由 緒 ■

むかしまだ当地に家数もすくなかった頃、人々は協力して開拓にいそしみ、
罔象女神(農耕生活に欠かせない川の水を守る、水の神様)を奉斎、
祠を建てて祭祀をつくしたといわれる。明治初期村社に列した。

■ そ の 他 ■

神紋:三つ巴(祭神が水を司る神ということから、 水の紋として「三つ巴」を使用しているようだ。)
建物:本殿・権現造4坪、幣殿・4坪、拝殿・12坪
境内:513坪 末社:五社 氏子:145戸
崇拝者:450人
神事と芸能:春祭(祈年祭・3月10日・前日に口開の祭執行)神輿2基
宮司:水鳥川修治
氏子代表:中村庄右衛門 大塚佐一 白井一夫 加藤敬之 叶谷誠 中村小欽吾

                                          全国神社名鑑1977 P270より


 全国有名神社一覧の中に
 当 水主神社が茂原市の中で「八幡神社」と一緒に名を連ねている。
                    (茂原市では2社のみである)   日本「神社」総覧平成4年10月30日 P493より


七渡水主神社の歴史・いわれ

「水神社」は、多いが水主神社(すいしゅじんじゃ)という呼称は、珍しい
インターネットでみてもあまり見あたらない。社名(漢字名は一緒で読み方が違う)は違う二社が存在しています。(調査不足もありますが・・・)

「水神社」の祭神は通常、水を主宰する神、罔象女神(みずはのめのかみ)を主神として奉斎している神社ですが
当所七渡の水主神社も罔象女神を主神として奉斎する神社です。なぜ水主神社になったのかはこれから調べていきたいと思っております。
尚、水神社も当所にあり主神は、彌都波能賣神(みつはのめのかみ)を奉斎しています。


 ■ 水主神社(みずしじんじゃ) 京都府城陽市水主宮馬場1にある

◆水主神社9◆
水主神社の祭神は、・・・天災除疫五穀豊饒祈年祈雨
祈雨大神の内に加わり仁寿貞観のころ加茂両社松尾稲荷住吉大社等諸社と共に・・・
新年祈雨の奉幣あり・・・



◆社名について◆
貴船神社の祭神は「高お神」ですが、「お」は「雨」かんむりに「龍」です
(Unicode9747)


◆鳥居と杜◆

 木津川の右岸に鎮座、宣命雨師、雨乞いの神である。
 木津川の渡しの両岸にあり、渡しの神としての性格上・・・



◆由緒等◆
祈雨大神の内に加わり・・・




 ■ 水主神社(みずしじんじゃ) 香川県大内町(現東かがわ市)にある

◆水主神社◆
祭神倭迹々日百襲姫命は、日照に苦しむ人々のために雨を降らせ、水源を教え、水路を開き米作りを助けたといわれています。


◆水主の美神◆
 溜池の築造や灌漑技術の優劣が稲作の明暗を分けたことは容易に理解できる。
水主は、稲作の伝播からそう遠くない時期に、讃岐一円を舞台に活動した先進的な
農業水利技術をもつ集団が居住したところではなかったか。
その集団の象徴が百襲姫であり、里人には先進技術によって豊饒をもたらす美神に映ったことであろう。
 
水主に由来する農業水利技術者集団の氏神であったかもしれない。



 ■ 水主神とはなにか

◆707 水主神とはなにか 風琳堂主人 2003/02/11◆ の以下抜粋


■『神宮典略』(内宮系神統譜)が記す「滝祭神」の異称同神名
大水神=滝祭神=水上神(水上御祖)=御裳乃濯川比女=朝熊水神

「水霊神」として「大水神」が考えられるとすれば、これは伊勢内宮の元神である滝祭神と同神だとなります。

■滝祭神としての瀬織津姫
 江戸期末とはいえ、伊勢の神官である荒木田経雅が、大水神=滝祭神と瀬織津姫が同神であると指摘していたのは貴重なことです。

■水神としての滝祭神
滝祭神〔無宝殿、在下津底、水神也、一名沢女神、亦名美都波神〕

 瀬織津姫=滝祭神=大水神=沢女神=美都波神=水上神(水上御祖)=御裳乃濯川比女=朝熊水神=速川神=寒川神=大神御蔭川神……

■御蔭(川)神としての瀬織津姫
@蚊野神社……大神御蔭川神(『儀式帳』)、瀬織津姫(『儀式帳解文』)
A田辺(田乃家)神社……大神宮御蔭神(『儀式帳』)、瀬織津姫(『儀式帳解文』)
B御船神社……大神宮御蔭神(『儀式帳』)、瀬織津姫(『儀式帳解文』)
 以上、三社はいずれも外城田川流域にあって、むかしは神社境内の入口は、外城田川流水に面していたと土地の古老はいう。

 伊勢側の関係資料からは、飛騨一ノ宮・水無神社の「水無=水主」という言葉は出てきませんけど、この水主神が、たとえば「大水神」や、「水上御祖」といった瀬織津姫の異名と無縁であるとは考えにくいです。

(2) 讃岐の水主神とはなにか
 飛騨一ノ宮・水無神社の由緒によりますと、同社の現在の祭神は、水無大神(御歳神)とされるも、位山の「水分の神」であり、「神通川、飛騨川の水主」と、両大河の「川神」であることがうたわれていました。これは水無神がまさに水主神であることを告げるもので、しかも、ここの神は、「祟り神」ともいえそう
 現在確認できるもので、その名も「水主」を社名にもつ神社が少なくとも二社あります。一つは、京都・城陽市の水主神社(祭神:天照国照彦天火明奇玉饒速日尊ほか9柱)と、もう一社は、香川県大内郡の水主神社(祭神:倭迹々日百襲姫命)です。
 城陽市の水主神社祭神の天照国照彦天火明奇玉饒速日命は、飛騨の水無神社の数ある祭神諸説のなかの天火明命説(『神名帳考証』)と一見共通しています。水主神=水神は、天照国照彦神、あるいは天火明命、あるいは奇玉=櫛玉神、あるいは饒速日命といった男性太陽神の諸神と、深い関係にあります。これら同性格の諸神、つまり海洋農耕神かつ太陽神・火神の総称神として、あの長い神名=天照国照彦天火明奇玉饒速日命(『先代旧事本紀』)はあるとおもわれますが、この神が水神=川神として考えられるとすれば、それは、海からやってくる男性神格の龍神の要素をもっていたからでしょう。一方、水神もまた女性神格の龍神ともなりますので、これが、両神が水神=水主神とみなされる、あるいは混同される理由かとおもいます。
 しかし、基本的には水神と日=火神は陰陽の対極をなす関係にありますから、「水」の神は女神が基本でしょう。城陽市の水主神社にそれを探りますと、全10柱の祭神のうち2柱、つまり、かつての天照御魂神、山脊大国魂神だけが月次新嘗の対象で別格であったことに注意がいきます。天照御魂神は伊雑宮と同じ祭神表示で、大国魂神は男系の日神を国津神化したものです。両神はもともと一対神でしたが、水主=水神の要素をもち、さらに日神=天照神と関わる水神はなにかと考えますと、天照御魂神が隠している本来の女神の名は自ずと絞られてきます。

 さて、話を水主神にもどします。讃岐国、つまり現香川県に鎮座する水主神社です。こちらの祭神は、城陽市の水主神社とはちがって、倭迹々日百襲姫命一柱とされています。
 倭迹々日百襲姫命──これまでに例のない水神=水主神の名が登場してきました。日本書紀は、倭迹々日百襲姫は、三輪山の神に通われる女性であり、また、孝霊天皇の皇女だとも記していましたから、この女性は、神と人との境界にいる存在、あるいは巫女的な存在(斎宮的存在)であったことが想像されます。
 讃岐国の水主神社の由緒等を読んでみます。

■水主[みぬし/みずし]神社(【式】水主神社)
(祭神)倭迹々日百襲姫命
(鎮座地)香川県大川郡大内町水主1418
(由緒)
当社は、大水主大明神又大内大明神と言われ、文武、元明天皇の時代より「洛陽の坤の方なる讃岐の国に霊地あり、大水主御社と号す」と言われていました。
創祀は遠く孝霊天皇の御宇にして、一説には、宝亀年間の勧請と誤伝していますが、再建の年にして、祭神は孝霊天皇の皇女「倭迹々日百襲姫命」で、七才の年に大和の国黒田の盧戸より出て、八才の時東讃引田の安戸の浦に着く。御殿、水主に定め造営せられたとあります。

 讃岐の水主神社は、「文武、元明天皇の時代」にはすでにまつられていた古社のようです。文武時代は持統晩年にも重なりますから、この時代は伊勢神宮の改竄創祀がなされてまだ日が浅い時間を背景にもっています。また、元明天皇の時代はそのまま藤原不比等の時代でもあり、古事記が創作され、つづいて各風土記がつくられはじめた時代です。

■水主神社「境内案内」T
 弥生時代後期、女王卑弥呼の死後、再び争乱が繰り返され、水主神社の祭神倭迹々日百襲姫命は、この争乱を避けて、この地に来られたと伝えられています。  姫は未来を予知する呪術にすぐれ、日照に苦しむ人々のために雨を降らせ、水源を教え、水路を開き米作りを助けたといわれています。

 由緒の言葉が俄然いきいきとしてきました。倭迹々日百襲姫命は、「女王卑弥呼の死後、再び争乱が繰り返され」たため、その「争乱を避けて」、大和の地から、この讃岐の地へ流浪してきたことになっています。その真偽はなんともいえませんけど、「姫は未来を予知する呪術にすぐれ、日照に苦しむ人々のために雨を降らせ、水源を教え、水路を開き米作りを助けた」という姿は親しみがもてます。この讃岐の地で水神=水主神とみなされた、このモモソヒメという皇女は魅力的な存在です。

■水主神社「境内案内」U
◎倭迹々日百襲姫命
奈良県黒田慮戸(現在の奈良県磯城郡田原本町黒田)に居を定める。御年七才より黒田を出、八才にて水主宮内に着き給う。成人まで住み給いて農業・水路・文化の興隆成し水徳自在の神と称へられ奈良時代にはすでに神社形成をなしていた。

 倭迹々日百襲姫命が三輪山の太陽神と感応する能力をもった女性で、生存時点ではまだ水主神ではなかったということでしょうか。これはいいかえれば、彼女自身が水神と一体となる感応力をもった存在 (「雨を降らせ、水源を教え」る能力をもった女性) であったとしても、彼女自身は「水源」の神そのものではなかったということです。つまり、彼女は、神をまつる存在ではあっても、自身が神=水主神としてまつられるのは後世のことだろうということです。
 このことは、水主神社の神仏混淆時代の産物である「大水主大明神和讃」(応永十七年=1410年、増吽[ぞううん]僧正作)に、モモソヒメの(大和から讃岐への)流浪の姿は、「たとえば伊勢の神垣は/日本姫(倭姫)に託[のり]まして/五十鈴の川の滝祭/尋ね廻りし如くなり」という言葉によってもわかります。日本姫=倭姫の流浪は、まつる神としての天照大神の鎮座地を探しての流浪旅だったわけで、自身がまつられるための流浪ではありませんでした。
 この讃岐の水主の地にも、伊勢の滝祭神と同神がすでに鎮座していて、それが倭迹々日百襲姫命の到来を待っていたと想像することは楽しいです。
 和讃は、この水主の地は「有縁の処」であり、ここには「往昔大悲の御誓い/深くおわする」ともうたっています。また、「葦原国の浅ましき/吾らを導き給わむ」とも語り、この言葉は倭迹々日百襲姫命あるいは大水主大明神に向かって祈るように捧げられています。
 和讃は、また、火神を厭うイザナミ神を例にし、水神に思い入れる心性や、水主神社を守護するように取り巻く水主三山の神と熊野三山神は「同体」だともしています。しかし、熊野三神のなかでも、特に「和光同塵」の神、「日本第一大霊験」を現す熊野神、「結の御前」ともされる熊野神、つまり熊野・那智(の滝)神に「神力無窮の盟[ちかい]」をもって「水徳立てん」としています。この「水徳」を立てるのが、増吽自身なのか倭迹々日百襲姫命=大水主大明神なのか判然としないほどの思い入れが伝わってきます。
 増吽は、「熊野は千手の因の徳/枯れたる木にも花咲きぬ」と、まるで那智の滝神かつ桜神を知っているかのような言葉も残していて、大水主大明神に、「神力霊験双[ならび]なし」の「水徳」をもたらすことを願う言葉を絶唱しています。
 こういった増吽の和讃を読んでいますと、倭迹々日百襲姫命=大水主大明神が熊野・那智神と深く重なってきますし、もっといえば、この和讃によって、大水主大明神は那智の滝神とまさに「同体」となったようにおもわれてきます。
 倭迹々日百襲姫命という謎の姫は、「第七代」天皇=孝霊の皇女という、気の遠くなるような「過去」の姫です。また、最初期の前方後円墳とされる「箸墓」に眠る皇女ともいわれています。その真偽は今は確かめようがありませんけど、那智の滝神=滝祭神=瀬織津姫と、この流浪する皇女は、その「水徳」においても、また、その流浪の姿そのものにおいても、確実に重なってきます。それが、現在、讃岐・大内の地で手厚く信奉されている水主神の二重化された「神」の姿かとおもいます。

■黒島(黒嶋)の意味
黒島と言うと南から北まで随分名前のある島ですけれども、海の仕事をする人たちが特に信仰していた島、大切にしていた島に、そういう名前がよくつけられます。
 黒島が九龍島と表示されている例(和歌山県古座町)から、龍神が鎮座する島ということかもしれません。
 さて、池之宮という社名は、ほかにも瀬織津姫がまつられる社に散見されるものです。讃岐国でいえば、この池之宮の「池」に該当するのは、先にふれた大蓑彦神社でいえば、「寒川渕」となりましょうか。また、水主神社とも関わりますが、讃岐国一ノ宮・田村神社にも、この「池」に相当するものが、しかも、かなり謎めいていますが、確認できます。
 水主神社の和讃の最後のところに、よく読むと奇妙な文句があります。それは、「そもそも当社は当国(讃岐国)の/一品一の宮なるべきを/御妹に禅[ゆず]りまし」という箇所です。水主神=倭迹々日百襲姫は、讃岐国の一ノ宮になる神格をもっていたが、一ノ宮の格を「御妹」に譲ったというのです。
 そのように一ノ宮の格を譲られたのが田村神社なのですが、奇妙なことに、ここは水主神社と同じ祭神=倭迹々日百襲姫命とされ、では「御妹」はどこへ行ったのかとなります。同社の由緒を読んでみます。

■田村神社(【式】田村神社[明神大社])
(祭神)倭迹迹日百襲姫命、五十狹芹彦命 配 猿田彦大神、天隱山命、天五田根命
(鎮座地)香川県高松市一宮町大字一宮286
(由緒)田村神社略記
祭神
倭迹迹日百襲姫命[やまとととひももそひめのみこと]、猿田彦大神[さるたひこのおほかみ]、天隠山命[あめのかぐやまのみこ]、五十狭芹彦命[いさせりひこのみこと]、吉備津彦命[きびつひこのみこと]、天五田根命[あめのいたねのみこと]
以上五柱の神を田村大神と申す
天隠山命は高倉下命[たかくらじのみこと]とも申し神武天皇御東征の砌霊剣を奉って偉功を立て給ひ後御子天五田根命(又の名を天村雲命[あめのむらくものみこと])と共に紀伊国より当国に渡らせられ山河を以て国郡の境界を分つなど開拓水利の基を定められた
皇室武門武将の崇敬
当神社の起源は極めて古く社記によれば元明天皇の和銅二年社殿を創建すとあり往古より田村大社定水[さだみづ]大明神又は一宮大明神とも称し夙に朝野の崇敬浅からず 仁明天皇の嘉祥二年二月従五位下に叙せられ清和天皇の貞観三年二月官社に預り延喜の制名神大社に列し讃岐国の一宮たり以後屡々神階を授けられ建仁元年二月正一位の極位に敍せらる降って明治四年五月十四日に国幣中社に列せられたり〔中略〕
当神社奥殿の床下に深淵あり厚板を以て之を蔽ひ此の殿内には盛夏といへども凄冷の気が満ちてゐて古くより神秘を伝へ今に窺ひ見る者なしこれ定水大明神の称ある所以にして領内に水旱あれは領主奉行は必ず先ず以て当社に祈願したりと云う

 祭神説明をするにあたって、日本書紀を忠実になぞっていることがわかります。モモソヒメは、水主神社の伝承では、大和から流浪してきたというオリジナリティがありましたが、田村神社の由緒には、それはほとんどみることができません。その意味で、田村神のモモソヒメと水主神のモモソヒメは対極をなす「神」だとなりましょう。水主神が一ノ宮の格を「御妹」=田村神に「禅[ゆず]」ったという表現をしていたのは、おそらく、国家祭祀への迎合神となった田村神としてのモモソヒメへの揶揄の意味が込められていたことが考えられます。

■出雲大社の神仏分離
 「神仏習合の弊」を意識し、また国家神道=唯一神道を先取りしようとした二社めにあたるのが、讃岐国の田村神社なのかもしれません。モモソヒメは書紀に準じて、つまり、「武埴安彦[たけはにやすひこ]の謀反を予知して建言し給ひ謀反を未然に防ぐ等数々の勲功」ある祭神であり、そのイメージをずっと押し通してきたのでしょう。ヤマト=朝廷権力がうごめく地から、戦乱を避けて、厭うて、流浪してきた水主神のモモソヒメとは、その名は一緒でも、神の質はまったく正反対だとなります。
 井の神は「定水大明神」と呼ばれているようですが、まさに秘された水神が「床下」にいることはまちがいありません。この神は、「水旱」あるときは雨乞いの神となるそうで、そういった「神秘」の神、封印された水神がどんな神かは、わたしたちはほぼ確定的にいうことができます。
 それにしても、那智の滝神=滝祭神=瀬織津姫と一体化した水主神としてのモモソヒメのほうに、わたしたちが抱く「神」の本来のイメージがどれほど近いかということ──、この田村神=朝廷協力神としてのモモソヒメとの比較において、それは歴然としてきます。
 最後に、田村神社が不比等時代の709(和銅二)年に「創建」されたことと、のちに水主神社が後発の田村神社に一ノ宮の格を「禅[ゆず]る」とされていることには、深い関係があるだろうことを指摘しておきます。不比等の王権・祭祀構想が具体化されつつある時代に、田村神社があえて創建されたことは、水主神社にとってばかりでなく、その後の「日本」の神まつりの全体・歴史にとっても、ことのほか大きな問題の所在を象徴的に暗示しています。


■ 水主神社祭神 罔象女神(みずはのめのかみ)について ■
農耕生活に欠かせない川の水を守る、水の神様で清らかな、乙女を連想させる女性神です。
日本書紀では罔象女神(みつはのめのかみ)、古事記では彌都波能賣神(みづはのめのかみ)と表記する。

民間では井戸水の神様と同一神と考えられているところが多い。
井戸の神ともされているのが、ミズハノメ神です。
さらに本来の治水、止雨といった、水神としての御神徳があります。
尿から生まれているミズハノメ神は、農業の神ともされています。
尿は現代とは違い、農作物を育てるための大切な肥料だったからです。
灌漑用水の神、井戸の神として信仰され、祈雨、止雨の神得があるとされる。
川の神、その川から田圃に水を引く灌漑用の水路や、生活用水などの水の精霊が神格化された
深い井戸を掘る技術がなかった時代には、自然の湧き水や川の水を引いてきてせき止めて生活用水として利用した。
当然そうした大事な場所は聖なる空間として意識され、そこに水神が祀られた。
化学肥料などなかった時代に、糞尿は作物を栽培する上で大変重要な肥料だった。
だから、尿から生まれた罔象女神は、肥料の神とも考えられている。
また、水の神。水を司る神様として、川や雨の水を守り、雨乞いなどでもお祀りされる。
 ミズハは、「水が走る」「水が這う」という意味を持ち。これは龍神とされていることの多い、
蛇や龍をイメージしていると考えられています。
蛇のように身をくねらせて流れ下る川からイメージされたものであろう。
そこから素直に連想すれば、中心的な神格は川の神、その川から田圃に水を引く灌漑用の水路や、
生活用水などの水の精霊が神格化されたということになる。いずれにせよ川の水は、
昔から田を潤して稲を成育させるために絶対に不可欠なものだ。だからこそ人々は、
神の力で川をコントロールしてもらい、毎年変わりなく田圃に水が運ばれるように祈ったのである。


上記に水主神社についていろいろないわれがありますが当社は、龍に関係する水の神のように思われる。
また、水主神社は、空海にも関係されるとされていますので昔、
当所寺院に同じ龍(龍堂寺、龍鑑寺。龍は高貴な水と気象の聖霊)が使われているところをみると、
神社、仏閣と密接な関係があったのだろうか?
龍は、詳細はハッキリしないが田を破壊する大水の神であったとも考えられる。
宇宙全体のある次元バランスを保つ役目として、”龍王神界”という世界があり、
龍は、地球における三次元のバランス保つ為に、
風の神・火の神・水の神・土の神などを使徒の神として、
この地球を太古の時代から守り続けているようです。
祭神に水の神に関係する龍も使われ、水の主として崇めていたように思われる。


■ 神社の格式について 当社は、無格社です。 ■
明治四年(1871)太政官布告に依り定められた神社の格式で十二の社格に別けられる。

その社格は上から
 神宮(皇大神宮・豐受大神宮並びに別宮各社全一六社)
 官幣大社(明治神宮・出雲大社等全六五社)
 國幣大社(気多大社・南宮神社等全六社)
 官幣中社(厳島神社・貴船神社等全二三社)
 國幣中社(弥彦神社・寒川神社等全四七社)
 官幣小社(大國魂神社・波上宮等全五社)
 國幣小社(戸隠神社・水無神社等全五〇社)
 別格官幣社(靖国神社・豐国神社全二八社)
 府縣社
 郷社
 村社
 無格社
以上の様に別けられています。
又無格社とは、無格と言う格を有すると言う意味で、格を持たないわけではありません。
なので、無格社以下の神社も無数に存在しています。



 ■ 本殿(ほんでん)の造りについて

◆本殿は流造(ながれづくり)◆

  神社建築の一形式で全国で最も多い神社建築様式。屋根の前のほうが長く伸びて向拝をおおい、

庇(ひさし)と母屋が同じ流れ(傾斜)で葺(ふ)いてあるのでこの名がある。

奈良時代末〜平安時代に成立し,広く各地に流布した。

建物の長辺側あるいは屋根の棟(むね)と平行な面に建物の出入口がある平入(ひらいり)

屋根が反り、屋根が正面入口のほうに曲線形に長く伸びて向拝(こうはい)(庇)となっている。

側面から見ると、前後が同じとなる。



正面           側面

 ■ 農耕と神社(のうこうとじんじゃ)と狛犬について

◆農耕のシンボルと神道◆
  よく知られているように、農耕民族にとって雨は不可欠のものであり神道と農耕(特に稲作)との関係も深い。
 例えば、神社に奉納するお金のことが初穂料(はつほりょう)といわれるが、これは米などの収穫物を
自分たちの食にあてる前に神に捧げたことの名残である。
 神社の祭りも豊作を祈る性質のものが多く、農耕の初めに行われる祈年祭(としごいのまつり)と収穫を祝う
新嘗祭(にいなめさい)はほとんどの神社でおこなわれる。
 神名にも農耕・稲作と関連が深いものが多くみられる。
さらには、神社を意味するホコラ(祠)も、稲を収めた倉、ホクラ(神庫、宝倉、穂倉)から転じたものとされ、
元来は、穀霊祭祀の場を示したともいわれる。



◆ 狛 犬 ◆
  狛犬も神社には欠かせないアイテムといえる。
しかし、日本古来のものではなく、仏教と共に日本に伝えられたものらしい。
また、阿形(あぎょう)(口を開いている)・吽形(うんぎょう)(口を閉じている)の一対であるところも仏教的だ。
阿吽というのはインドの古語であるサンスクリット語の最初と最後の文字で、
英語の『A to Z』のように全てを包括することを意味する表現である。
狛犬という名前自体、高麗(こま)犬の意味で、外来のものであることを示している。
狛犬とは、本来は阿形が獅子で、吽形は狛犬だとされる。
また、狛犬の方には頭に角があるのが正しい形であるともいう。




トップへ

神社紹介
 2011.8.28〜