最近、小川力也氏によって疑義がだされた(「房総の郷土誌」第3号)。その要点はおよそ五つに整理できる。
こうして小川氏は、この史料が形式だけから判断しても、あまりにも近世的要素が強く、したがってこれを長亨二年(1488)のものとは 判断し難いとされた。この史料が根本史料とはいえないという小川氏の見解は当をえているようにおもわれる。
長亨二年の改宗令を示す(原文そのものではない) 御触 一此度御領内村々思召を以て法華宗に仰出され候もっとも之れまで法華宗之処の者は其のままにおかるべく候、 外宗の儀はのこらず日蓮法華に相なるべくもし違背の者之あらば曲事となすべきもの也 長亨二戌申年五月十八日 伍奉行 栗 原 助 七 印 宮 島 傳 七 印 右 村 々 名 主 中 |
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@一般に「御触」という言葉は、江戸時代において為政者が命令を一般大衆に伝達する時に用いた言葉である。 中世においては、禁止事項を示した文書に、「禁制」あるいは「制札」を用いた物はあるが、「御触」を使用したものは ほとんどみかけず、この場合は寧ろ冒頭に何も書かないのが普通のようである。 | |
A「右村々名主中」とある事。この場合は村々の「名主」宛にするのは疑問であり、その趣旨からすれば寧ろ各々の 寺院宛にすべきであろう。「名主」宛とすると、自ずからこの改宗令は長亨のものではなく近世・江戸時代のものであろうということになる。 | |
B幾つもの条項であるならばともかく、一つの条項だけで「一」と書くのは疑問である。 | |
C署名の下の「印」は中世においては、特殊な例を除いてあまり用いられておらず、一般には「花押」が多く用いられている。 「印」は近世に至って多く現れてくる。 | |
D「奉行」という職掌が記されていること。中世の文書形式からしても「奉行」と記してあるのはほとんど見かけず、 「奉之」として「奉行」を意味するようである。 |
出典 「市原市史」(中編)
出典 「房総の郷土誌」(第3号)