龍堂寺

 龍鑑寺が建立される前の真言宗の巨刹であった。(戦国時代まで)
所在地 七渡小字元北原

 龍鑑寺のことであるが、多くの書物や俚伝では定隆によって改宗されたように記載されているがこれには疑問がある。
 第一定隆の時代にはたして七渡まで土気の勢力が及んでいたかどうか。七渡まで定隆の勢力は伸びていたと考えられないわけでもないが、一片の書類だけで決めてしまうことは問題があると思うのである。

 

 当時本納には本納城があって、七渡は本納城の支配下にあったと思う。
土気、本納両城の戦の年月も明確でないが、仮に土気方の古文書、土気古城再興伝来記によれば永禄四年(一五六一)土気城主酒井胤治の時であって、定隆は大永二年(一五二二)東金城で死んでいる。

 定隆の時代は、本納も里見の配下であったので争う理由が無い。北条の勢力が上総に及んだとき酒井が里見に反し、北条に内通した時から敵見方となり、土気は本納を攻め落とした。本納落城と共にその領内は悉く改宗され、前述の聖人塚のことも龍鑑寺のこともこの時代の事件と思う
 龍鑑寺はその頃まで龍堂寺といって真言宗の大寺であったらしい。貫主の日明は土気城主の命に対し改宗を承知せず。寺の財宝を持って長南町西村の報恩寺に難をさけたらしい。報恩寺は真言宗の寺としては郡内最高の寺であったので当時は、東の龍堂寺と並んで真言宗の巨刹であったと思われる。両寺の合併に関する伝説は数多くあるが古文書等による証明は困難であるが、報恩寺の境内から発掘された鰐口に永徳元年二月願主秀倫上総国山辺郡(アガタ)宮奉献の文字がしるされている。
 県宮は、現大網白里町金谷郷の氏神で土気城の北東にあたっているが永徳元年は一三八一年で酒井氏とは関係は無い。
 又、西村の報恩寺とも関係は無いと思う。七渡とは相当深い関係があったと思われるその理由は現在でもこの金谷と七渡附近の人との間に婚姻関係を結んでいるものが相当ある。当時龍堂寺と県宮とはいかなる関係があったかは知る由も無いが、報恩寺の鰐口から想像すると、県宮の神官秀倫が何らかの理由によって龍堂寺に寄進してあったものを報恩寺に移したと推定される。
 真言宗の寺龍堂寺は酒井氏によって廃寺とされた。その後に日蓮宗の龍鑑寺という寺を建てられた。改宗に際し大多数は、寺の建物も僧侶もともども改宗したが、中には寺はそのままで僧だけが逃げたり殺されたりした。ごく特殊な例として建物もつぶし僧も逃げたり殺されたりした。
 龍堂寺は第三に属する珍しいことであり、現在このことを証明する何ものも無いが、ただ寺の奥の庭園はかつて真言宗の巨刹であった当時をしのばれるとのことである。
釣鐘に記載された内容  龍鑑寺にある釣鐘に当時(龍堂寺時代)の事柄が載っていたので紹介します。

 大同二年(807)開山の七渡山龍堂寺「真言宗」が改宗令に抵抗し当時の西村(現長南町)報恩寺(現長南聖苑の近く)に難を避けて移った。
 その際寺領内に仏具や経文を埋納した塚が残されたが今は無い。
 その跡地に日蓮法華宗の日泰上人により開祖されたのが現在の七渡山龍鑑寺であり、享保四年(1720)に鐘が奉納されたが昭和の大戦により犠牲となった壇徒ともに失われた。
 現梵鐘は、日泰上人四百五十遠忌記念のため再鋳された。
釣鐘に記載された内容  以下、梵鐘に記されている原文です。(左上の画像を選択すると梵鐘が拡大されます。)
上総
七渡山 龍鑑寺梵鐘縁起

当山は大同二年の創建なり
旧鐘は享保四年の作なるも昭
和の大戦に依り郷党七十二柱の英
霊と倶に犠牲となる
七里法華開基日泰上人四百五十縁
忌記念のため再鋳を発願す
寺檀一結浄財を得て当代の巨
匠香取正彦氏に依頼し之を鋳
造す
 龍堂寺についての事柄が房総志料(抄)に記載あり。
- 以下抜粋 -
長柄郡帆丘【現:茂原市本納】に近きあたり七渡といふ処あり。割居の代彼地に龍堂寺といふ真言派の古刹あり。此比土気の城主日蓮派に傾き諸宗を駆。龍堂寺も同じくからる。龍堂寺後に埴生郡報恩寺村に遷り名を法音寺と改。寺に古鐘一口あり。銘に龍堂寺とあり。始七渡に寺の建し時の鐘なり。又七渡の廃地は此時よりして日蓮派の寺となる。旧号を襲今に龍堂寺といふ。寺の側に古塚二ツあり。一は仏塚といゝ一は経塚といふ。始龍堂寺真言派たる時の仏像経巻什器等を埋し塚と(按に埴生郡雲上山報恩寺は醍醐三宝院の末寺新義真言派末門徒十二寺寺領十五石上総檀林表八寺の其一也)。

出典 「茂原市史」(茂原市史編さん委員会) 

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 2011.8.28〜