葬 儀 の 習 俗 あ れ こ れ


 以下は、昭和後期まで当所でも残っていた風習ですが現在は、葬儀場で済ませ自宅葬を行うことが無くなっています。
当所でも土葬が平成になってから行われた経緯がありますが現在は、火葬で行って骨壺をお墓に埋葬しています。
今でも講中が残っていて葬儀場まで行っていますが、昔のように竹のお箸を自宅で作ったりすることは無くなっています。
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 ◆野 辺 の 送 り

 墓地または火葬場まで列を組み死者を送ることで、「野辺の送り」「野辺送り」「葬列」とも言います。

 一昔前は、葬儀の際に「野辺送り(葬列)」を組んで墓地まで列をなして死者を送ることが一般的に行われて来ました。
 現在では霊柩車の使用もあり、本格的な葬列を見ることは少なくなりました。
 
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 ◆龍  頭

 龍頭(たつ がしら)とは、山から取ってきた2メートル位の木或いは竹竿の先端に、龍の頭にあたるものをつけ天蓋《笠に五色の紙(2センチ幅位)を付け下げる》をつり下げたものであります。
 龍頭の役割は、邪:悪霊を追払うというものです。
 行列の先頭は龍頭で、次に葬儀幡四本が続き、灯籠や他の持ち物が続くそして僧侶、喪主の位牌、遺体か遺骨、そして遺族と続きます。
 昔は(火葬の風習以前)は埋葬が終わると龍頭や長杖を墓の上に立て石を載せ、天蓋をのせる風習があった。これは悪霊を防ぐと共に野犬等から守るためでもあります。
 なぜ龍なのか?。龍は中国では王や神を表象する。インドやエジプトでは再生の神でもある。日本的民族風習としては、死者から離脱し浮遊している霊魂に天蓋をさしかけた。 それは、荒魂を封じ込めるというものではなく、旅立つ死者の魂に、いたわりと哀惜、そしてもう一度生まれ変わってこいという念を込めての風習であろう。
 【当所で龍頭を作っていた時は、目に栗のイガを使っていました。】
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 ◆石 で 釘 を 打 つ

 
近親者が最後の別れを告げたあと棺の蓋が閉じられ頭のほうから石で釘を打ちます。回数は二回打つのが一般的ですが確定しているものではありません。 ところで石に超自然的な力、呪力が宿るとする信仰は古代より認められます。たとえば土葬の場合にふた石、又枕石と呼ばれ埋葬した土盛りの上に置かれる石は、 山犬などの掘り返しを防ぐという実質的な意味と共に、霊の封じ込めという意味があるようです。
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 ◆ま く ら 団 子

 
お釈迦さまがお腹をいためて沙羅林におやすみになった時、食物がのどを通らなくなったので、弟子たちが消化のよい食べ物にしてあげたいと思って、食物をよくすって、丸めて団子にし枕もとへ置いてあげました。 今なら流動食というところでしょう。しかしそれは、遂に一つも召しあがらないで、おかくれになったので、枕もとへお団子が残りました。それを型どって団子が最後のお供えものになったのです。 当地のまくら団子には決まった数はありませんが、葬儀の時の団子の数は「49個の団子」といって、49個と、かさ団子といって少し大きめの団子をすこしつぶして6個添えます。 この団子は霊供の六道餅と同様の意味であろうと思います。
 そして、供えるときには対になるように盛りつけますが、枕団子には粉(片栗粉)を付けずに供え、葬儀後の供養からは、片栗粉で仕上げた団子を供えます。なかなか几帳面な作法ですがその風習のいわれはわかりません。
 全国的には枕団子が11箇であったり、13箇であったり、四四の16個であったりします。4と死の相通からきているものと思われます。13箇は13仏信仰からのものでしょう。 このように、団子や餅、枕飯の風習は結界と霊供が複雑に混合されて、各地の伝承もまちまちになっています。
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 ◆浄 め の 塩

 
葬場より帰った時には塩を体にふりかけてオケに入った水で手を洗う「きよめ」の習慣があります。
 浄めの仕方は地方によってまちまちですが一般的なやり方は玄関先に水と塩を用意します。その水で手を浄め塩は体にふりかけて浄めるのです。又、塩をつまんでうしろ向きに投げる。 その時うしろを見てはならないとする地方もあります。浄めの風習は当地でもありますが、都会でおこなわれている香典返しと一緒に渡す「お清めの塩」の風習は最近までなかったことであり不合理を感じてます。 人の死を不浄と考えるのは死にたいする恐怖から出るのでしょうが、そうゆう考えのために、近年の火葬場建設は必ず反対運動が起こり、尚、煙も出ない無煙火葬場となっています。 昔の火葬場は煙突から出る煙を見て、「天にのぼっていったわ」と感慨にふけったものでありました。
 浄めに塩が用いられるのは仏教神道だけでなく広く払浄儀礼として行なわれており、祭の祭場、神棚かまど、井戸の浄めにも用いられます。仏典に「若し屍に触るる者は衣を連ね倶に洗え、 その触れざる者は但手足を洗え」と記されておるようですが、これは死者が穢れているというのではなく、インドのガンジス河では毎日の沐浴が生活の一部になっていますし、我が国の禊ぎというのは川に入ったり水をかぶって身を清めます。 どれも身を清める「行」の名残ととらえています。昔は埋葬後に家にもどって来る時に、一番重要な食料調製器である臼をさかさにしてその上にタライの水や塩を置いたりしていました。 これは仏教の教えというのではなく、古来からの浄めの意味と死霊が立ちもどり依りつくのを防ぐというような意味からの葬送風習と考えられます。
 お葬式の時には、どこの家でも神棚に白い紙を貼って神殿の扉を閉じてしまいます。昔(80年ぐらい前まで)は嫁が母屋で子供を産むことを許されず、納屋の部屋でお産をしたという話も伝わっています。 今となっては信じられない話ではありますが、お産を赤不浄、葬儀は黒不浄と言って忌み嫌っての神道的慣習だったように思われます。
 しかし、仏教では死体を「不浄」なものとは示しておりません。お釈迦さまゆかりの地、霊鷲山はゾロアスタ−教の鳥葬墓地の跡地であるともいわれており、 釈尊や弟子たちの着衣はその墓地に棄てられている布を用いたとされます。現代のお袈裟や絡子も小さく刻まれて縫い合わせてあり、田圃のようにも見えるところから「福田衣」(ふくでんえ)と称されています。
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 ◆六  道  銭

 
俗説に、死者の頭陀袋の中に入れる六文銭は、三途の川の渡り賃といわれます。この六文銭も、紙で切り抜いた紙銭をもって代用するところがあります。この紙銭の由来は、中国での慣習として、 故入が生前所有していた資産を残して死出の旅に出るので、思ひが残らぬようにという心使いから、紙に銭型を押したものを棺に入れたのが始まりのようです。 また江戸時代に入って十王説が盛んになり、死者が罪を軽くしてもらう為紙銭をたくしたので寄庫銭(きこせん)ともいいます。
 初めの頃は紙銭であったものが心情がこもって、後には実際の六文銭を入れるようになったのでしょう。
 ところで穴あき一文銭を使うという伝承は江戸初期の寛永通宝以後のことです。そして渡し賃の六文だけでは渡りそこなった時に困るからというので、十文入れるようになり、 こんなことから徳川幕府はついに諸寺に命じて、棺内に金銭を入れることを禁じたといわれます。かつ明治以後は寛永通宝が、なかなか手に入らなくなって、 極楽通宝と書いた紙銭をもって代用したものと考えられます。
 ところで六文銭を六道銭ともいいます。六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つのことで、地獄は極苦の世界、餓鬼は飢渇で苦しむ世界、畜生は無知の世界、 修羅は闘争にあけくれる世界、人間は苦楽相なかばする世界、天上は快楽の世界です。お地蔵さんはこの六道の中に自ら身をおいて、衆生の救済を誓願されている仏さまであり「六道能化のお地蔵さん」と呼ぷのはそのためです。
 穴あき一文銭を六枚、死者の首にかけて葬る風習は、この仏教の関与があります。つまり、六道の大地蔵さまに賽銭をたくし、地獄での苦痛を軽くさせようということでしょう。 六文銭の代りに六個の米包(六道米)を供えるところもあります。当地方では団子を供える時、丸く作った他に六個だけは少しつぶして供えます。丸い団子は亡き仏に対して供えると共に、 六個のつぷし団子は六文銭や六道米と同じく、六地蔵さまに供え、故人が極楽往生できるようにとの真心と願いがこめられているようです。
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 ◆日 常 の 逆 習 慣

 
葬儀には通常とは逆の「逆さごと」というものが行われます。例えば、死者の衣装は左前に着せる。帯の結びもこま結びを縦に結ぶ「縦結び」です。遣体と枕飾りとの間に立てる屏風を逆さまに立てる。 又、掛け布団も(逆さ布団)といって裾を顔のほうにもってきます。この掛け布団は遣体をあたためないよう軽いものを使います。 更に、湯濯に使う湯の用い方にもまず水をタライに入れておいてそこに湯をそそぐ(さかさ水)などの作法は日常とは全く逆の方法ですので通常はこのような逆作法は忌み嫌われます。
 ところで、焼香のときに左手でなさる方がおられますが、入棺通夜の時には前述のごとく日常の逆ととらえているのであれば一理あるのですが、 本葬儀で引導香語の後に廻す焼香には、右手でするのが一般的です。焼香の作法は、左手に数珠を持ち手を合わせてから、まず右手で香をつまみ額にいただいて香炉にたき、 さらに一回つまんで今度は額にいただかないでそのまま香炉にたくのが本来の作法です。
 出棺するときには仮門から出ますが、この時、履き物は家の中で履いてから外に出るため、日常は家の中で履き物を履いて出るなという風習になったものでしょう。 又、日常赤飯には味噌をつけるなという風習がありますが、葬儀の昼食のおこわご飯(黒飯)が余ったときにはおにぎりにして味噌をつけたものが夜食に出るのです。先人の厄よけ的知恵ともいえます。 出棺後に部屋を掃き浄め、葬儀壇を飾り直してから、あとはらいの清めを行なうしきたりがありますが、この時にカンをしない日本酒と梅千し等で、敷居をはさんでお酒を飲み合う、跡祓いの浄めのしきたりです。 そのために普段は敷居をはさんで酒の飲みあいはするなという伝承となったのでしょう。
 尚、この時用意した浄めの酒は残さないで飲むというならわしです。
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 ◆告 げ 人 は 二 人 の 訳

 
死亡の通知を寺や村人に告げに行く場合、一人ではけっして行わず、二人で対になって行くものとされていた。それでも、どうしても一人の場合には小石を持ったり他人の名前を書いた紙を持っていった。 いずれにしても、これは悪魔除けにつながるものだ。ちなみに石は納棺の後、蓋を釘で打ち付けるとき金槌ではなく石を使う。土葬の時には埋葬した上に後石を置く。 これらは、一般的には死霊が暴れ出さないようにと解釈されているが本当は悪魔がつかないようにとの呪術であろう。何故かと言うにアフリカの民族宗教では葬儀の後手を石にこすりつけてケガレをはらう。 エジプトでミイラを作るときには金属ナイフではなく石包丁を使ったという。ゾロアスター教では現在も死者の安置は石板の上であるという。ゾロアスター教でも葬儀の儀礼は二人一組で処理にあたる。 一人だと悪魔に負けるからだという。
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 ◆土 葬 に つ い て

 
この辺りでも土葬の文化がありました。平成の初めまで行われていたと記憶しています。二人(講中)で寝棺を納める自分の身長より深い穴を掘る作業がありそれに増して掘る途中で水が出てきて大変だったと諸先輩からお聞きしたことがあります。 寝棺よりも多少大きな穴を掘り野犬などの被害にあわないように深く何時間もかけ掘ります。掘ったら梯子で穴から出て荒縄を寝棺の端と端に掛けて寝棺を穴に降ろします。
 お棺に土を小高くかけその上に故人の家となる天蓋(のような飾りをつけたもの)をのせ終了です。
 今でも火葬された骨壺を土にそのまま埋めて天蓋を置いている地域をみたことがあります。
 時間が経つとお棺が腐さり小高くもった土が下に落ちてゆきます。
「葬儀しきたりの由来説明」より引用