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茂原海軍航空基地の記録

広報もばら平成22年3月1日No.837に掲載された内容を紹介します。
七渡にも茂原海軍航空隊基地にちなんだ 通称海軍道路が通っています。

茂原海軍航空基地の記録
今から65年前、連合国との戦争の渦中にあった日本はついに8月15日、ポツダム宣言の受諾決定を表明、 終戦を迎えることになりました。
 当時、茂原には、現在の東郷地区に海軍航空隊基地があったことから、その基地にまつわる多くの悲劇がありました。このことは、今の若い方達の多くは知らないことかも知れません。
 今年2010年は、終戦の年の1945年から65年という節目の年。
 そこで今回、茂原海軍航空隊基地の歴史をたどり、茂原にもこうした歴史があったということを あらためて振り返ってみたいと思います。
 日中戦争が激化し、また、日米関係が悪化していた1941年7月、国により策定された「国土防衛作戦計画要綱」に基づき、茂原中心部を南北に流れる阿久川の東側、現在の三井化学(株)茂原分工場敷地あたりを中心とした東郷地区(新小轡、本小轡、谷本、木崎、町保)に海軍航空隊基地の建設が決定しました。

茂原海軍航空隊基地跡の上空写真
強制移転
 建設予定地となった東郷地区住民に対しては、突然の移転命令の通達が出され、以後三次にわたる移転命令により、当時区域内に住んでいた100戸あまりの住民は、飛行場用地境界より外500メートルへ強制的に移転させられました。強制移転させられたのは、民家だけでなく、寺社や東郷小学校、東郷村役場、墓地もその対象となりました。
 先祖代々受け継がれてきた土地を捨てなくてはならなくなった住民は、わが家を壊したり、ご先祖様の眠る墓を 掘り起こしたりするなどの移転作業を行いましたが、それは、精神的にも体力的にも大変な負担がかかるものでした。
 当時、阿久川周辺は洪水などの水害が多かった土地ゆえに、飛行場造成には相当量の埋立用の土砂が必要でした。 そこで、南側からは、現在の南中学校北側の浅間山から採掘した土砂を空中ケーブルにより、また、北側からは、腰当の光福寺まえから採掘した土砂をトロッコにより、それぞれ建築地まで運搬しました。

飛行場の大きさ
 飛行場の面積は約240ヘクタール(東京ドーム約51個分の広さ)、兵舎敷地面積は約40ヘクタールという広大なもので、滑走路は、南北に走る主滑走路と東西に走る滑走路があり、総延長距離は3000メートルにも及びました。
 ちなみに、萩原小学校の敷地は、かつての基地本部があった場所であり、茂原中学校の敷地はかつて兵舎があったところです。
 飛行場の北側には、敵機の攻撃から飛行機を隠して守るためコンクリートで作られた施設「掩体壕」が20数基作られました。この建設中に壕が潰れる事故が起きており、多くの犠牲者が出ています。掩体壕は11基が現存しており、茂原に海軍飛行場があったことを今に伝える貴重な遺産です。

敗戦近し
 当時の茂原は、米軍機の首都来襲の通り道にもあたっていたこともあり、茂原飛行場は米軍艦載機によって頻繁に爆撃を受けており、何人もの尊い命が犠牲になっています。
 敗戦が濃厚となった1945年4月には、約40名により編成された神風特別攻撃隊が沖縄戦に参加するため、茂原基地から鹿児島県の国分基地を経て戦場へと飛び立ち、その多くが戦場に散ってゆきました。(合掌)


茂原海軍航空基地
茂原海軍航空基地
 ●軍が強制移転命令
  +滑走路総延長は三千メートル
 茂原飛行場に駐屯した部隊は、海軍第二五二航空隊と称された。
 面積は、二四○町歩(約二四〇ヘクタール)、兵舎敷地四○町歩(約四〇ヘクタール)で、滑走路の総延長は約三〇〇〇メートル。
 隊員は、約四〇〇〇名、飛行機は、零式艦上戦闘機(通称ゼロ戦)、九九式艦上爆撃機(略称九九艦爆)合わせて約八〇機が常駐していた。太平洋戦争末期には、ここから多数の特攻隊が帰らぬ出撃を繰り返し、大空に散り、あるいは海の藻屑と消えたのである。

 ●住民に突然集合の通達
 日米交渉が次第に悪化し、もはや開戦は時間の問題とされていた昭和十六年九月一日。この日、全く突然に「用地内住民は実印を持参し、東郷小学校へ午前九時に集合せよ」との通達があった。
 関係五地区の木崎、谷本、町保、新小轡、本小轡一〇五戸の住民は不安な表情で東郷小学校に集まった。ここで説明を聞いた住民の顔はこわばり、青ざめていた。「大東亜共栄圏形成に占める日本の役割は重大で、この土地における軍事基地の建設は必要欠くべからずものである。時局はまた時間を待てず、住民は三ヶ月以内に用地境界より外五〇〇メートルに移転すべし」という内容である。

 ●反対すれば「非国民」
 その場には、あらかじめ書類が用意されていた。そして、有無をいわせず承認の押印をさせられ、決定してしまった。まさに、問答無用の措置だった。
 もし反対したり、押印を拒否したらどうなったであろうか。軍国主義が頂点に達しているころだ。軍の要請に応じないとあっては、たちまち「非国民」のレッテルを貼られ、「国賊」「スパイ」扱いされるのは目に見えていた。

 ●主滑走路が完成
  +約二〇基の掩体壕も構築
 表面はともかく、内心は泣く泣く用地提供に応じた住民に、さらに厳しい追い打ちが待っていた。一方的な用地買収価格と、家屋移転料の査定だ。
 買収用地の価格は、山林が、一反歩(一〇アール)二百五〇円(坪八〇三銭)、畑地四百五〇円(同一円五〇銭)、水田五〇〇〜六〇〇円(同一円六六銭〜二円)、宅地一二〇〇円(同四円)。また、家屋の移転料も一方的に査定された。再建が可能か否か判断されたのである。

 ●移転先に困った住民
 住民が一番困ったのは、移転先の宅地確保と、大部分の農地を失うことだった。その夜から地区別の寄り合いが何回持たれ、親類、縁者を頼って東奔西走せねばならなかった。
 寄り合いの席で、自分たちのことを”罹災(りさい)者”とか”被害者”とか言っただけで警察へ連行され、その夜は家に帰れず、留置所へ一晩泊められ、始末書を取られた人もいたのだ。

 ●家屋の取り壊しにも苦労
 次は、家屋の取り壊しと運搬であるが、その労働力の確保が問題であった。当時、大部分の壮年は兵役に就いており、車は大八車かリヤカ−、トラックはなく牛馬車もわずかしかなかった。しかも、農民の移転はサラリーマンのそれとは、だいぶ様子が違う。
 何十年も動かしたことのない”みそおけ”や漬物の石、果ては、先祖の墓の遺骨を掘り返し、移すことまでしなければならなかった。その困難さは筆舌に尽くせないものがあったのである。
 その時の移住者で形成された地区が茂原市三貫野(東町)で、それまでわずかに五戸しかなかった。それが昭和十七年末には、一挙に五〇余戸の集落にふくれ上がった。

 ●勤労奉仕隊を動員
 一方、飛行場の建設は、軍の施設部隊(一部は、正規軍で、大部分は微用工員)により行われた。機械力はトロッコ軌道と数台のブルドーザーだけ、大部分が人力に頼らざるを得なかった。
 長生郡はもちろん、山武、夷隅両郡内をはじめ、県内各地から強制的に編成された勤労奉仕隊が動員された。その中には、中学生、女学生も多数含まれていた。また、重労働の大部分に朝鮮人が従事させられていた。
 埋め立てに使用される土砂は、二つのルートで運ばれた。一つは、南約四キロの下永吉の浅間山から空中ケーブルによって、他は西北約二キロの腰当地区から軌道で運ばれた。
 こうして昭和十八年、幅七〇メートルの南北に走る主滑走路と、東西の滑走路が完成、続いて約二〇基の掩体壕(えんたいごう)の構築が始められた。

 ●一三一航空隊も移駐
  +零戦、彗星に機種改編
  突貫工事で犠牲も
 昭和十八年、茂原飛行場の滑走路完成に続き、飛行場周辺に約二〇基のかまぼこ形の掩体壕の構築が推進された。掩体壕は敵機の来襲に備え、飛行機を隠す壕をいう。
 その作り方は、土を小丘型に積み上げ、その上を「むしろ」なので覆い、さらに太い金網を被せ、コンクリートを流し固める。コンクリートが固まると、中の土を出して上に載せ、擬装した。
 掩体壕の入り口の型は、格納する飛行機の種類によって異なる。だが、この構築は戦局の悪化に伴って急がれるようになり、まだコンクリートがよく固まらぬうちに支柱を取り外したため、圧死した勤労奉仕隊員もいた。

 ●往時しのぶ掩体壕
 敗戦後、建築物は東京農大、茂原中などの教育施設に活用されるものが多かった。一方、用地の処理は複雑な歩みを示し、明らかにすることはかなり困難だ。
 しかし、原形(旧地形)をとどめる所は旧所有者に、それ以外で農地として活用できる所は、開拓営団(除隊軍人による農民)に配分された。その他は、自治体、財務局等で幾多の交渉を経て、学校、工業用地、団地などに変化している。
 現在、住宅地になった所は、ほとんどが営団農民の離農に伴う土地であり、これに対する近隣農民の心境は複雑であったに違いない。なぜならば、自分たちのかつての土地が、昭和二十三年に一反歩(一〇アール)七五〇円で購入され、現在は、坪あたり万も二けたの単位で売られたからだ。
 なお、約二〇基あった掩体壕の大部分は破壊されたが、今も二基がほぼ原形をとどめ、往時をしのばせている。



茂原海軍飛行場建設
茂原海軍飛行場
 茂原の隣村東郷に飛行場があった。
 昭和十六年に、太平洋戦争が始まり、国民は中国戦争で七年も戦って居り、国内はへとへとになって居る矢先に、米・英を相手に戦争をと、軍部は狂い始める。
 海軍は、連合艦隊の働く所がなく、持て余していたところかも知れない。我が帝国海軍健在なりとばかり、米・英の大国に戦争を仕掛けた。
 中国戦争はとにかく、太平洋戦争によって多くの犠牲者が数限りない。
 昭和十六年より軍の命令で茂原の隣村東郷村地域に、海軍の飛行場が出来るとのこと。
 村をひっ繰り返したような騒ぎで、
 先ず、家の移転、お宮、お寺、お墓全部で、
「さあ大変だ。お祖父さんの生家も、引っ掛ったそうだ」
「手伝いに行かなきゃ、行き先は何処かしら」
「家は古いから、立て直すそうだ」
屋敷の木は一本も残せない。
「家はなんとかなるが、お墓の移動に困りました」
 それが、一軒や二軒ではない。村ぐるみ、周辺の人は、土地を見つけ、家を引く人も出て、平坦なので、二百メートルぐらい引く人も居る。
 平坦地なので、山林は比較的少なく、風避けに椎とか欅があり、家の材料になる松や杉が少ない。
 広大な土地を、一年足らずで、引き渡さねばならず。
 現今、成田空港の土地騒ぎで、国でも困って居るが、これとは雲泥の差で、役場より差し出された書類に判を押し、ただ黙々と移転に取り掛かる。
 民主主義の世の中から見れば、悪夢みたいな出来事であるが、事実道路を作るにしても、国や県に協力することは当時はあたりまえで、黙って判を押した。
 移転先も、役場等の斡旋で、当時は茂原付近にも相当土地があり、茂原東町三貫野は、移転によって、多く家が出来、街の形態を成すに至り、東町と言われる。
 移転費等、一切、軍より保障があるので、移転するに人はそれなりの金額の保障は当然。
 移転外である茂原の人達も思わぬ需要に、仕事が多くなり、間に合わないながらも、忙しくなって、大工鳶工等の工賃が、順次昇り始め、茂原の町は飛行場のお陰で活気づいて、商人、食堂、料理屋さんは、特に忙しくなった。
「移転始めたが、どう飛行場を作るんでしょうね」
「平地だから、土は余計に使わないらしい」
 当時、ブルドーザーは、一台もない手作業で、飛行場を作る話だ。
 素人には想像がつかない。見当もつかない。
 あんなだだっ広い所を、どう短月日に仕上げるか考えられない。
「作業をする人達はどんな人かしら」
「それは、微用といって、全国から適当な人を集めることが出来る」
「微用って、召集兵と同じですね」
 昭和十七年始めには、茂原へ微用工員が続々と来て、飛行場作りに集合し始める。
 この人達の宿舎作りに、建設会社が入り込み、その職方がまた多く、街も一段と飛行場景気となり、茂原駅より飛行場敷地までレールが敷かれ、物質が大量に入り込む。
 宿舎食糧の確保、微用工員千五百人は優に集まる。その他、関連の人達、建設会社と、海軍上級士官等々。
 さらに茂原に、慰安所なるものが、五、六軒を並べ建てられ、慰安婦もどこからともなく集まる。
 私達は、防空監視隊の合間に、軍事訓練専門教育の青年学校なるものがあり、すでに、助手を務めて居たので、週二回微用工員に、軍事訓練を教えることと相成った。
 飛行場の低い所の盛土は永吉より直距離四キロの場所よりケーブルカーで運搬する、後は手押の線路付きの「トロッコ」ぐらい。
 滑走路のコンクリートこれをどう打設したか、いずれ生コンクリートは無いので、手打のミキサーで打設したと思うが、大量のセメント砂利砂は、考えただけでも大変な量だと推測する。
 幅三十メートル、長一キロ以上の滑走路が何本かあった十九年後半、飛行機が飛び立つまで漕ぎつけたそうで、その頃は米国の飛行機が航空母艦より飛来し、茂原の上空での空中戦があったと聞くが、日本も飛行機が少なく、囮の飛行機も置いて誤魔化した模様であるが、しかしそれもなんの効果もなく終わったそうである。
 私は飛行場のお陰で、中国に居ても茂原のことが気になって居り、軍事基地なので当然猛爆されたと思った。中国では米軍が九十九里海岸に上陸し東京に向かう、という情報が飛んだ。
 茂原の山々には防空壕を多く掘って備えた、と後で聞く。
 復員後、茂原の山地には沢山の横穴があり、戦時中は兵隊達の手によって岩盤を切り崩し作ったもので、相当数の多い長い横穴が点在して居て、
 ここで米軍を迎え撃つ手段であったろうが、戦争が長びけば茂原も惨胆たる戦場となり、いま考えただけでも身の毛がよだつ思いである。


   

出典:茂原海軍航空隊調査報告書 1996年3月31日 茂原市教育委員会発行

    承継の年輪ー昭和を生きた小企業の道 1989年3月 正林工業株式会社発行

 

 2011.8.28〜