七里法華と酒井定隆

 「心了院日泰(1432~1506)に帰依した酒井定隆が、自己の領内中野・土気を中心に北は、成東、南は茂原、東は、九十九里西は、生実に及び約七里四方に跨る領内に、他宗の自院建立を許さず、悉く法華宗をもってしたので、世に上総の七里法華という」 と『日蓮辞典』には、その成立と範囲について述べられております。しかし、一般的にいって七里法華とは、上総の長柄郡から山辺郡にわたる日蓮宗寺院の密集地域と考えられています。

日泰は、京都妙満寺10世日尊の弟子で浜野の本行寺を拠点に布教活動を押し進めていましたが、長享二年酒井定隆が土気城に入ったとき招かれ本寿寺を創建し、また城の南の真言宗の寺を日蓮宗に改め 善勝寺と命名しました。この年五月十八日領内の寺院を悉く法華宗に改めるよう、いわゆる改宗令がだされたといわれています。改宗令に対しては、当然寺院側の抵抗がありましたが、武力をもつ戦国大名にかなうはずがなく、ある者は処刑され、又は、追放されました。 七渡の龍鑑寺は、元真言宗の古刹でしたが日蓮宗に改められ、住僧は寺宝をもって報徳寺(現長南町)に難を避けたといわれております。

龍鑑寺境内に安政2年(1855)に建立された日泰の供養碑があり、『七里法華開基』の文字が刻まれている。