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1990年12月11日午後5時〜8時 |
戦後最大の竜巻被害千葉県茂原市 |
戦後最大の竜巻被害としては千葉県茂原市で発生したものが挙げられる。
1990年12月11日午後5時〜8時に、千葉県の数か所で竜巻によると思われる強風被害が発生した。
午後7時13分ごろに大粒の雨と、雹(ひょう)強風と雷鳴の中「ゴー」という音がして、家全体が小刻みに揺れた。
被害は重傷6人(うち1人後日死亡)、負傷者73名、全壊82戸、半壊161戸、一部損壊1,504戸、多数の電柱が折損し、約14,600戸で停電、電話不通1000などであった。
被害は東西1キロメートル、南北3.5キロメートルの範囲に集中している。「火災旋風」の行動範囲は、幅が狭く長くても2キロメートル以内ぐらいであるのに比べると、それをさらに拡大したエリアが被害を受けている。
竜巻は、北北東へ向かって約16m/s 程度の速度で移動した。構造物の被害からの推定した最大風速の下限値は78m/s であった。被害の範囲は茂原市の高師、萩原町、上林、小林地区などを含む東西に平均で500〜600M、南北に約6.5kmの範囲であった。被害を受けた建物の多くは木造であったが、鉄骨造や鉄筋コンクリート造の建物も被害を受けた。鉄筋コンクリート造の病院も被災し、窓ガラスのほとんどが破損した。この病院の内部を強風が吹き抜けたため、大量の飛散物が建物内に侵入して、病室では入院患者等が負傷した。その他では、大型ダンプカー、マイクロバスや多数の乗用車が転倒、飛散する等の被害を受けた。被災した建物からは、屋根板、瓦、外壁や看板などが剥離、飛散した。これらの飛散物は、他の建物の外壁や屋根に刺さる、穴をあけるなどの被害を与えた。また他の建物の窓ガラスを破壊し、割れた窓ガラスの破片と共に室内に侵入して、居住者を負傷させた。室内に侵入した強風は屋根を飛散させる要因となり、飛散した屋根の部材は飛散物となり、再び他の建物を破壊した。
竜巻のスケールについてはシカゴ大学の故藤田教授の提案された、Fスケールが定着しておりF3であったと推定されている。F3は秒速70―92メートル(約5秒間の平均風速)、壁が押し倒されて住家が倒壊する。非住家はバラバラになって飛散し、鉄骨づくりでもつぶれる。汽車は転覆し、自動車が持ち上げられて飛ばされる。森林の大木でも、大半折れるか倒れるかし、また引き抜かれることもある。ミステリーが起こりはじめる―と説明されている。故藤田教授は竜巻研究のため発生の多い米国で研究に従事された。
ここ七渡でも竜巻の残骸(材木、トタン板等)が田んぼに飛散して間もなく田起こしが始まる時期だったので飛散物を取り除く作業もあちこちで見受けられました。 |
・被 害 状 況@
・被 害 状 況A
・被 害 状 況B
・各地の竜巻の強さ |
1989年7月31日夜から8月1日にかけて、千葉県南部を集中豪雨が襲い、総雨量は217mm(長生土木事務所)に達し、茂原市では市内中心部を洗れる一宮川や土田川が氾濃、730戸が床上浸水、1,641戸が床下浸水した他、道路・崖崩れ等が110箇所、下水処理場などの公共施設にも大きな被害をもたらした。茂原市ではこのほか、過去20年間の間に、1970年7月1日の集中豪雨災害(床上没水214戸、床下没水247戸)、1971年9月6〜7日の台風25号災害(床上浸水129戸、床下浸水336戸)、1988年8月4日の台風10号災書(床上没水34戸、床下没水140戸)、1987年12月17日の千葉県東方沖地震(家屋被害11,700戸)などの災害を経験している。
我が家も床下浸水になる。土嚢を積み上げて内に溜まった水を排水ポンプで汲み出した記憶があります。
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・被 害 状 況@
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1987 年12 月17 日午前11 時8 分に発生 |
千 葉 県 東 方 沖 地 震 |
関東地方南部に強い地震が襲った。「千葉県東方沖地震」である。銚子・勝浦・千葉で震度5、水戸・熊谷・河口湖・横浜・東京・館山・網代で震度4 を記録し、とくに千葉県では死者2 名の被害を生じた。千葉県に震度5 の地震が起こったのは、昭和28 年の「房総:沖地震」以来34 年ぶり、また死者が発生したのは35 年の「チリ地震津波」以来27 年ぶりのことだという。この地震の被害は震源地に近い千葉県内で最も大きかったが、物的被害は住家の全壊16 棟(16 世帯)、半壊102 棟(102 世帯)、一部破損(瓦の落下を含む)71,212 棟(69,792 世帯)、道路の損壊1,832 ケ所、河川の損壊176 ケ所などとなっている。この地震により各地でブロック塀が倒壊し、その数は2,792 ケ所にのぼった。この地震では千葉県において3 件の火災が発生した。すなわち、勝浦市においてアイロン台が転倒したもの、大網白里町において楽焼き釜が転倒したもの、九十九里町において石油ストーブが転倒したものの3 件だったが、いずれも大事にいたらず鎮火している。
震源は、北緯35度21分・東経140度29分。深さ58Km。最大震度5(マグニチュード6.7)
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2011 年 3 月11 日午後 2 時46分に発生 |
東 日 本 全 体 で 大 地 震 |
巨大地震が2011年3月11日、三陸沖を震源に日本列島を襲いました。阪神大震災の約1000倍に相当するM9.0のエネルギーで激震が約5分も続いた後、最大数十メートルの津波が押し寄せ、無数の方々の命や生活が奪われました。日本本土の地盤が約2.4メートルも移動したというほどの衝撃に、相次ぐ余震、そして原子力発電所での炉心溶融。被曝被害も発生し、数十万人が避難生活を送るなか、ここ七渡でも計画停電が実施され、緊張の日々が続いています。 |
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1923 年 9 月 1 日午前11時58分44秒発生(大正12年9月1日) |
東京・神奈川を中心とするマグニチユ−ド7.9の巨大地震が発生(関東大震災) |
巨大地震が1923年9月1日、震源地は神奈川県三浦半島付近です。東京一面が火の海になり、10万余人の人が亡くなりました。壊家70,000余、関東大震災の死者の多くは、火炎流による焼死者で、たった一箇所で死者3万8千人とも、4万4千人とも言われる焼死者を出したのが、当時の本所区横網町(現在の墨田区の一部)にあった本所区被服廠跡。2万430坪の敷地の中で火炎流にのみこまれて死亡したのです。 |
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1703 年 12 月31 日午前 0 時頃発生(元禄16年11月23日) |
千葉県南方を震源地とするマグニチユ−ド7.9−8.2の巨大地震が発生 |
巨大地震が1703年12月31日深夜、野島崎の南海上を震源とする推定マグニチュード8.2の大地震が江戸・関東諸国を中心に襲いました。震源に近い場所では震度5〜7と推定されます。この地震により福島から紀伊半島にわたる広い範囲で津波が発生し、津波の高さは、最高で10〜20メートル程度に達しました。房総だけでも4000〜5000人以上の死者を出しています。
被害は九十九里沿岸に多く2000人を超える溺死者が出ました。この時期はイワシの豊漁期のため多くの漁業関係者が海岸近くに納屋集落を作っていたことと、津波が一宮川等の河川を遡り、かなり内陸にまで押し寄せたことが被害を広げました。また安房国長挟郡横渚(よこすか)村の集落・前原(鴨川市)では600余軒の家屋が全て流失し1300人を超える死者を出しました。犠牲者の供養碑が各地に建てられています。
この地震に伴って、房総半島南端の大きいところでは地面が5メートルも隆起したと考えられている、島だった野島は陸続きとなり、以後、野島崎と呼ばれるようになりました。
この元禄大地震以外にも房総近海を震源とする大地震は、慶長9年(1604年)、延宝5年(1677年)、安政2年(1855年)にも発生しています。 |
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茂原では「茂原貝層」と呼ばれる平地から、鯨の化石や多くの貝殻が発掘されていますが、それは茂原の地が昔、海中に没していたことを示していて、当時の低地はまさに"藻の原"であったといわれています。その後、旧石器時代には既に人が住んでおり、藻の原が徐々に隆起し、低地に人々が移り住むようになったのが縄文時代の中期頃です。
平安時代には、藤原黒麻呂によって土地が開拓され、荘園「藻原荘」が置かれました。藻原寺の開創は、鎌倉時代に入ってからのことで、日蓮上人が法華経を布教するために鎌倉へ向かう途中、当時の領主であった齋藤兼綱の館に迎えられ、仏堂を設けたのが始まりと伝えられています。
江戸時代に入ると、茂原は幕府領となり、五人組制度等による厳重な封建体制が敷かれました。茂原や本納では六斎市が開かれ、物資の集散が多くなり、交通の要衝として賑わいをみせます。明治22年(1889年)には茂原町周辺の地域が合併し、茂原町が誕生すると、鉄道の開発などに伴い、人口はどんどん増加していきました。また、全国有数の埋蔵量を誇る天然ガスが電子管工場・化学工場の誘致源となり、茂原は「煙のない工業都市」と呼ばれるようになる。
昭和に入り、日中戦争が本格化してくると、昭和16年(1941年)に茂原の東郷地区(現三井化学(三井東圧))に海軍飛行場(茂原飛行場)の建設が決定されました。その建設に伴い、飛行場予定地内の住民や役所などの建物は、強制的に移転させられました。戦後、昭和27年(1952年)に茂原町・東郷村などの6ヶ町村が合併し、人口約3万の茂原市が誕生しました。その後は長南町大字須田・本納町・陸沢町川島字目黒を編入し、人口約9万人が住む現在の市域となっている。
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