東日本大震災は戦後最大の被害をもたらし、原子力発電所事故は被害の深刻さだけでなく国の根本的なあり方が問われている。
そして、地震や津波は100年に一度の被害、1000年前の地震に匹敵する規模だと言われ、同一地域に住む限り二度は被災しないばかりか、津波などは一度も経験せずに生涯を終わる場合もある。逆に言えば巨大地震や大津波は多くの人にとっては初体験ということになる。
したがって、地震や津波から命と暮らしを守るには過去の経験を生かす必要があるとの声が被災者や専門家など各方面から上がっている。
そこで先ず、長生郡市の郷土の歴史書を辿り、過去の房総の地震、津波による被害状況や教訓について考えてみたいと思います。
「ふるさと茂原の歩み」より
「近世の郷土の地震被害ですが、大打撃を受けた記録は一つも残っていません。慶長六年・元禄十六年・安政二年の地震が、房総に関係する三大地震ですが、石灯籠が倒れたとか、土蔵の壁にひびが入ったといった程度の記録しか残っていません。」(24ページ)
「大正十二年の関東大震災は、時代的に近いので、被害記録や語り伝えが残っています。」・・・・現在、経験者が健在。父母や祖父母から話を聞いている人も多いのでは。
「この夜大地震にて、郭内石垣所々くづれ、櫓多門あまたたをれ、諸大名はじめ士庶の家、数をつくし転倒す。また、相模・安房・上総のあたりは、海水沸きあがり、人家頽崩し、火もえ出で、人畜命を亡ふ者数ふるにいとまあらず」
(『徳川実紀』元禄十六年十一月二十二日夜丑刻の記録)(1703年12月31日午前2時)
元禄大地震の被害範囲は、相模(神奈川)、武蔵(東京)、安房・上総(千葉)
建物崩壊は小田原が一番ひどい
江戸は大火災が加わる
安房は津波と土地の隆起、陥没
上総は津波被害
鷲山寺の津波供養塔について
溺死者 2154人
供養塔の合祀範囲は、四天木村から現白子町、長生村だから房総
沿岸全体では大変な被害
例えば、小湊の鯛の浦は陸地であったのが水没し海中に。
死者100人に
宝暦3年の51年忌に供養塔を建立
林天然著「長生郷土漫録」より
●供養塚 一松村
本興寺境内にあり、元禄十六年十月二十二日房総沖に大地震あり海嘯のため溺死するもの三百八十四人を合葬せる墳墓である。
●無縁塚 白潟町
幸治區にあり、元禄十六年の秋大海嘯に襲われ死するもの三百六十餘人の死骸を集め合葬せる所である。
●津波精霊塚 南白龜村
牛込區古屋敷にあり、元禄十六年十月大海嘯のため溺死せるもの百三人を合葬せる所である。因みにいう茂原町鷲山寺山門の入口に元禄大海嘯の際溺死せるものの供養塔が建てられてある。
・・・ 今をさる事三百五十年前慶長六年十二月安房から上總にかけて大地震があり続いて大きな津波が起こった。其の被害地は南は安房白濱から鴨川、小湊、北は興津、勝浦から東浪見、白潟、山武郡片貝迄、東沿岸舊四十五ヶ村に及んだ詳細な記録はないが、二三の郷土史に記してあるから参考迄に次に轉載する。
●房總治亂記
慶長六年辛丑十二月十六日、大地震、山崩れ海埋まりて岳となる。此時安房上總下總海上俄に潮引て三十餘町干潟となりて二日一夜也。・・・
●房總軍記
慶長六辛丑十二月十六日暴忽に大地震動し雷々として深山萬叡鳴動する事夥し、堂舎佛閣踊り倒され、磐石崩れて海を埋立て山となり安房上總の海、斯須に潮三十餘町干潟して平沙となる事二日一夜、諸人驚いて四方みつめ、ましろけば忽ち涌り倒され首逆になり足空になりて、さながら天地轉覆するかと眩暈す。・・・農民は家財雑具を壓流し早く逃ぐる者は助かり遅く逃ぐる者は溺死となり云々。・・・
●野史 巻八
慶長六年冬十二月十六日巳酉。上總安房大地震。山崩海埋、成獄海上。潮涸三十餘町。明日海大鳴潮溢。人畜多死。
●關八州古戦録第十六巻
天正十八年(慶長六年の誤記なるべし)十二月十六日の夜諸國一同に大地震しける中に安房上總の兩國殊更夥しく云々。
同じき十八日子刻許り沓なる沖の方鳴動す。すさまじく聞えて黒雲の渦く如く見えたりし程に濱邊の者ども妻子を引連れ逸足を出して山上へ逃げ登りけるに暫くの後高潮打寄せて云々。
元禄大海嘯
地震學者の説によると、大地震は百年を經過せざれば再び同一場所には起こらないと。慶長六年關東に大地震起り爾來房總沿岸には數回の小津波があったが、大ツナミは無かった。所が慶長六年を去ること百三年目元禄十六年十一月二十二日江戸に大地震起り死者十餘萬人に達したという。同時に房總關東海濱は再び大ツナミに襲われた。其の被害地は南房州白濱から朝夷、長狭、夷隅、長柄、山邊、武射、等舊六郡の沿岸村落に亙り詳細の事は明瞭ではないが各郡誌、町村誌等を見ると千人塚、精霊塚、供養塔、津波塚等の遺跡がある。此処に列記して見よう。
●鷲山寺門前の供養塔
茂原町鷲巣區本門法華宗の大本山鷲山寺の入口にあり正面に 南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう) と題し、右側に 元禄十六癸未十一月二十二日夜丑刻大地震東海激浪死者都合二千百五十餘人死亡。去癸酉五十一年忌營之 とあり裏面に 維時寶歷三癸酉十一月二十三日 と記してある、寶歷三年は元禄十六年をさる事五十一年後に當り、供養として餘りにも悠長である。供養塔と相對して一基の燈籠がある里人の談話によれば大正十二年九月一日の大地震に際し二基共に横に揺り倒れ、碑の下に經文を書いた貝殻が多量に現れたと云う。
●一松供養塔
一松村本興寺境内にあり死者三百八十四人を合葬し牌記に
維元禄十有六年癸未十一月二十二日之夜於當國一松大地震、尋場大波。・・・
●幸治の無縁塚
白潟町大字幸治區にあり、死者三百六十餘人を合葬した遺跡である。
●津波精霊塚
南白龜村字牛込にあり死者百三人を合葬した遺跡である。
享保十一年丙午十一月貝殻に經文を書き追福の爲め之を埋め塔を立てたと云う。
以上は長生郡内にあり此の外山武、夷隅、安房諸郡を訪ねて見よう。
●津波塚
山武郡白里町大字四天木區の鳳凰山要法寺の境内にあり
●千人塚
同郡緑海村大字松ケ谷區地蔵堂の境内にあり
●千人塚
夷隅郡御宿町袴山の麓にあり
●福島の暗礁
勝浦灣の左方八幡岬の西南一町許りの所にある。
●小湊誕生寺
日蓮の誕生地は今海となっている。
●野島岬
房州の南端白濱村にあり昔は孤島であったが元禄十六年十一月の地震及び海嘯により海が埋まり孤島と陸地との間三町許りが連接し一岬角となったという。
●瀧口の亡田
白濱村の西隣長尾村瀧口區に鎮座せる松原神社の近くにあり昔神社の後山より瀧水落下していたので村名がつけられた。
高橋家文書「御用留」第十集
安政二年十一月に発生した江戸大地震=安政大地震での影響は長生地方の直接被害より江戸市中の被害が大きかった。この高橋家文書には鶴牧藩領主水野氏の江戸屋敷の被害状況が記録されており、そしてこの被害が領地の農民の大きな負担となったことが記されています。
「千葉県長生郡郷土誌」(長生郡教育会編纂)より
「長生郡郷土誌餘録」の項
▽「關八州古戰錄抄」—諸國大地震付安房上總洪波事
同年天正十八庚寅二月十六日の夜、諸國一同に大地震しける中に、安房上總の兩國殊更に夥しく、山崩れて海を埋め、見るが内に岳をなす處もあり、社頭佛閣寺院坊寮士農工商の家々轉倒せざるは稀なりけり。暁方に成て海上の潮俄に退き、三十餘町干潟となる。昔庚安元年七月二十四日摂津國難波の浦、數百町水涸しとかや、亦同じ年阿波國鳴渡の沖數十町干潟となり、周防國の海中には二十丈許なる島浮み出せしと云う事、□く語り傳へたれば、先十蹤なきにしもあらねど、此邊には今始ての事の如くに浦々の漁夫海人共は申すに及ばず、村里の俗男女までも、肝魂を消ざるはなし。左ればにや、波打際切崖岩のはざま〃に、辛螺、榮螺、蛸蛇、海藻、磯菜、充満て、足のふみ蹈所もなかりければ、初の程こそ自他仰天して、其あたりへ寄り附ざりしが、二日一夜の干潟なれば、里の子共無告の者所を爭ひ、走り行て、魚を捕貝を拾ふ事、幾千萬と云數を知らず。然して同き十八日子刻許沓なる沖の方鳴動す、すさまじく聞こえて、黒雲の渦く如く見へたりし程に、濱邊の者とも妻子を引連、逸足を出して、山上へ逃登りけるに、姑くの後高潮打寄て、洪波榛漲り來り、數十丈の小山の半腹まで押浸して、漁家民屋ことごとく浪に引れ、人馬の溺死其數を量り難く、堤切れ橋断へて、陸地を船にて往返をなす。惣て安房上總下總浦々四十五ヶ所一同に高波押騰たり此故に鯱の谷鯛の谷などとて、其時大魚の打入られ谷々、今の世までも遺れりとぞ。
[解説] 本書は、享保十一年丙午年某氏の編する所にして、天正十八年二月十六日夜諸國大地震、殊に房總三州の被害甚だしく、十八日の子刻更に海嘯起り、廣く太平洋沿岸を荒せしが如し、されば本郡中九十九里に沿へる漁村の如きは、皆其の難を蒙りたり。當時の惨状は本書によって其の一斑を窺へ得べし。
▽「房總治亂記抄」
「慶長六年辛丑十二月十六日、大地震。山崩れ海埋みて岳となる。この時安房上總下總の海上俄に潮引き、三十餘町干潟となりて、二日一夜なり。同十七日子の刻、沖の方夥しく鳴りて潮大山の如くに巻き上げ、浪村山の七分を打かくる。早く逃げし者は遁れ、遅く逃げし者は死したり。先ず潮災に逢ひしは、部原、新官濱、澤倉濱、小湊、内浦、天津、濱萩、前原、磯村、浪太、天面、大夫崎、江見、和田、白古邊楯、忽戸、横桶、御宿、岩和田、岩舟、矢指戸、小濱、塩田、日在、和泉、東浪見、一の宮、南白龜、一松、牛込、剃金、阿負濱、片貝、不動堂、すべて四十五ヶ所なり。」
▽「房總軍記抄」—
「 ◯ 激 浪 の 事
慶長六年辛丑冬十月(十二月の誤りか)十六日、俄に大地震動く、深山萬野鳴動すること夥し。堂舎佛閣は揺り倒され、盤石崩れて海を埋め安房上総の海は須叟に潮三十餘丁餘干潟して、平沙となること二日一夜、諸人驚き騒いで、足も空になり、「さながら天地轉覆するか」と眩暈す。「是は稀代の珍事かな」と、肝を冷やし、魂を消す處に、同十七日子の刻に方々夥しく鳴動し、其の響大山の崩るるよりも凄じ。程こそあれ、逆浪 り溢れて、潮水巻き上り、民屋を流し、大木を倒し、堤壊れ、岸砕け、「山林草木海底にあるか」と怪まれ、農民は家財雜具を押し流し、早く逃げし者は助かり、遅く逃ぐる者は溺死せり。これのみならず同十四年己酉九月六日、大風起りて大木を抜き倒し、人家を吹き破り、堂塔佛閣一宇として全からず、上總小多喜領イワハダ曲田矢指戸との間、田尻と云へる處には、唐船漂着して、大風に船を覆し云々、(後略) 」
・・・⇒この「慶長の大海嘯」に関する郷土誌での記載は、前記の林天然氏の「長生郷土漫録」に轉載、引用されています。
▽「上總町村誌抄」−海嘯 「元禄大海嘯」
元禄十六年癸未十一月二十二日、本州の地大に震す、夜東海嘯き、洪濤陸に浸入し、
夷隅、長柄、山邊、武射四郡沿海の村落其害を被り、家畜を斃し、家屋を奪去せられ、
溺死する者幾千人為るを算ふ可からず。其死屍を集収し、各所に埋葬す、最著しきもの六墳たり。夷隅郡久保村の東方沙漠中に千人塚在り、當時溺死者を葬る其數詳に傅はらずと難も、千人塚の名称に因れる者ならん、今墳上牌あり。長柄郡一ツ松村本興寺境内供養塚在り、死屍三百八十四を合葬す、本寺位牌の背後に維元祿十有六年癸未十月二十二日之夜、於當國一松、大地震尋揚大波、鳴呼天乎是時民屋流、牛馬斃、死亡人不知幾萬矣、今也記當寺有録死者干名簿、勒囘向於後世者也と記す。幸治村に無縁塚在り、死者三百六十餘を合葬すと、今墳上松樹蒼々たり。牛込村の南方字古屋敷墓所中に、津波精霊と稱する一墳在り、死者百三を合葬すと、享保十一年丙午十一月経文を貝殻に書し、追福のため之を埋め、塔を建立し、亡霊を弔ふ。山辺郡四天木村の中央要行寺境内に津波溺死霊魂碑と書せし木塔在り、死者二百四十五を合葬すと。武射郡松ヶ谷村字地蔵堂に千人塚在り、死者の數詳ならず、蓋名稱に因れる者ならん、今墳上石地蔵を置く。其他自己の埋葬する者擧げて算ふ可からずと謂ふ。
〔解説〕元祿十六年十一月二十二日九十九里沿岸の海嘯は、實に惨狀を極めしものに
して、死者擧げて數ふべからず、本書は、よく其の概要を記したれば、以て参考と為すに足るべし。
「ふるさと」(上総一宮郷土史研究会編)
「浪切地蔵」「慶長の津波」「延宝の津波と供養塔」「元禄の津波」「元禄の津波萬覚書写」などの項目で津波に関し記述されています。
「津波のこと」の項では、「九十九里沿岸を襲った大津波は、過去六回あったと記録されている。弘仁、仁治、慶長、明暦、延宝、元禄の各年間の出来事である。弘仁や仁治それに明暦の津波は時代が古かったのかあるいは被害が少なかったか、記録はほとんど残されていない。慶長や延宝の津波は僅かながら記録されており元禄津波については、各地に多く残され、その被害の大きかったことがわかる。延宝と元禄の津波についての記録は、東浪見村児安惣治左衛門家(現牧野家)に伝わる『萬覚書写』(享保四年のもの)がある。」と記されています。
「一宮町史」
『萬覚書写』より
「一延寶五年十月九日夜の五つ時分、すこしの地しんこれあり、辰巳沖より海夥しく鳴来リ、釣村より一ノ宮境めまで下通に居住仕候家数五十二軒打潰し、男女子供百三拾七人死す、牛馬共二十六匹死す。その節のがれ申す者共身打痛み候者拾四五人も、ニ、三拾日の中に死去、以上百五拾人余死人御座候、本田地門かや刈道より川田不作、新ほり上小当尻まで下通りの田とも残らず砂はまのごとくに砂押上げ、無田になり三四年の内に砂はき漸く田畑になり候、下通新田十五年ほどにて漸く開発仕り候、然れども田畑とも悪作に成り候、
一津波水押揚げ候通り権現前根きしまで、大道下せき門道通り下の田道下通りまで浪上り申し候、道より上は所々少し水上げ申候、□里六左衛門屋敷よりゑび塚九郎兵衞までの家共はあと形もなく打流れ申し候、その外の家は形少し残り申候、地引網地あみ七掛これあり候ところ、舟諸道具は打破れ流れ、地引網残らずたへ申候、その後年を経て地網四掛仕出しこやし網に引き申し候、その節はたに置き申候境道は皆打流れ亡失に成り申候、打揚られ候者共皆、釣村より北原境まで中通会所に居住申し候、それより年過ぎて本の下通りに出て家とも作り居住申し候、 」
「長生村史」
第一章「沿革」第二節「慶長元禄の津浪と富士の爆発」の項より
(1)慶長の大津浪
(2)元禄の津浪 「(上總町村誌から引用した後。)・・・溺死するもの幾千人その死屍を収集し各所に埋葬す最も著しきもの六墳あり。夷隅郡久保村東方の砂漠中の千人塚、一松村本興寺境内供養塔、幸治村の無縁塚、牛込村の津浪精霊塚、四天木村の津浪塚、松ケ谷地蔵堂境内の千人塚などである。
本興寺供養塔碑記に「維元祿十有六年葵未十一月二十二日之夜於当国一松、大地震尋楊大波。鳴々天乎、是時民屋流、牛馬斃、死亡之人不知幾千万 。今也帰当寺有縁死者千名簿勤、回向於後世者也』とある。当寺境内には三百八十四名の屍が合葬されたと伝えるが、鷲山寺の記録には一松郷の死者八百四十五人とある。現在当時の木牌には溺死者名を記載してあり、また過去帳の一部も現存している。」
「長生村五十年史」
第6編「教育・文化」第2章「文化財」第四節「文化財に見る地震・津波の被害」より
古文書にみる地震と津波の記録
長生村は、太平洋に面する九十九里浜平野の一角にあり、・・・。このような九十九里浜の浦々に、以前から自然的風水害、地震、津波の発生が毎年のように起こっていたと当時の記録に記載されている。
牧野家文書(現一宮町)には、延宝五年(一六七七)の地震による津波で被害を被った田畑はあれ放題で、翌年苗を植えることはできないと文書は伝えている。
水口の井下田元田臺家の「先祖伝来過去帳」の記録には「元禄十六癸未年十一月廿二日夜 房総大津浪宮ノ下溜池迄水上ル夜ノ九ツ時より大地震ゆり三尺戸自然と明るく海辺は大地十二尺割れ波より先達て水堰出る依之土中ニ足フミ込逃げ候も埒明不申波ニ被付水死仕りもの凡そ七万人斗見ず死之者有之其の年極月迄不絶地震ゆりき」云々とあった。
東浪見牧野家文書には「(前略)船頭給より北ノ方段々浪多く打揚一松領三千石の家も大分ニ打ち潰シ人も千弐三百人も死ス、牛馬も大分死失申す候」と享保四年(一七一九)「覚書」に記されている。
宝永四年(一七〇七)大沼家の訴訟文書によれば「去ル未年津浪入れ種取ニ植え申す」「去ル未ノ津浪入り田畑亡所ニ罷成」云々とある。この事件は津波により一松村と宮成村との東西の堰の近くの田に苗を植えたものの、押し流されてその後荒れ田となった。これは津波が押し寄せてきて泥砂を田に運んできたものである。隣村との耕作地の境が不明である。地震により毎年田植え時期になると訴えがたえないので何とかならないか。と訴訟事件の様子が書かれている。
同家の過去帳には「同十六未ノ十一月廿二日夜ノ八ツ時より大地震ニて同時津波入り大分人死ス」とあり、別条には「(前略)同じ時ニ東海より津波入り一ツ松郷ニテハ八百人余死ス」と元禄大地震のことが詳細に墨書されている。
宝暦初期にも地震が昼夜二度あったと記され翌日は大雪となったとある。津波は猛襲したと思われ、納屋通りでは、家屋はもとより漁船、漁道具などが押し流され、老弱男女子供もあっという間に波に呑まれたという。一松より信友の神社まで波が押し寄せたと古老が話していた事を思い出す。・・・・
元禄の津波大位牌
一松本興寺の山門に二基の石碑がある。右側には「南無妙法蓮華経水 死霊 是人於佛道決定無有疑 元祿十六年癸未夭十一月廿三日 施主一ツ松村惣郷中」と刻まれ、他の一基は『元祿十六年大津浪本村死者八四五人 二百五十年忌供養塔 昭和二十七年十月二十三日営之 一松廿八題目講中』とそれぞれ刻されている。
本堂内の大位牌には法名が刻されているが数百年余を経ているので字句も薄くなり解読も困難である。
この時の状況は「夜四ッ時に三度あり 海鳴り激しく夜は八ッ半ころ津浪が押し寄せた」と文書は伝えている。夜四ツ時は現在の午後十時で、夜八ッ半は午前三時のことであった。
津浪の記録
驚の深照寺の「津波諸精霊」の記録文書には女子どもなど二〇六人死亡とあり、この辺は被害が大きかったところであった。溺死した者も多く人畜家財も流失したとある。境内には他にそれらの人々の墓石がある。
地震については最近人々は関心を持つようになった。地震の記事は「日本紀」 「続日本紀」 「類聚国史」 「日本後紀」 「続日本後紀」 「三代実録」 「文徳実録」 「日本紀略」 「玉葉」などの諸書に見られる。
十七世紀、慶長六年(一六〇一)房総地方にも大地震が発生した。・・・・
あの関東大震災は大正十二年九月一日の昼時に一瞬に起きたので幾千万の人々が悲惨な被害を被った。近年においては、千葉県東方沖地震は大きな被害をもたらした。
当時の広報ちょうせいから引用してみる。『昭和六十二年十二月十七日の千葉県東方沖の地震は関東一円のみならず広い範囲に振動を与えた。千葉県では長い間忘れていた震度五の強震を体験し、長生村でもかなりの被害を被った。
昭和六十三年一月九日、日本大学理工学部教授で理学博士の守屋喜久夫先生が来庁し、長生村内で被害の大きい所の現地調査をおこなった結果、次のような事がわかりました。
地震後、日を経ていたため液状化現象の噴砂、噴水の跡は消えかかっていたものが多かったが明らかに液状化現象による被害と認められるものがあった。
七井土の全壊した民家、建築して二年目の新しい斉藤宅。傾斜地に盛土し、家の半分がその上に乗る異種地盤。基礎に杭が打設してあったが、盛土の砂が流動して杭を破壊、移動させ家屋に被害を与えた。擁壁も動いている。斜面下の溝に噴砂がみられた。
長生村被害家屋 全壊 二棟 一部破壊 一八三三棟 (二月十日現在調)』
『◯墓石等の転倒・・・ ◯家屋の被害・・・◯今後の対策・・・以上が守屋喜久夫先生が我が村を見てまわり目で見た調査報告です。』(昭和六十三年三月一日発行広報ちょうせい三月号)・・・
そして最後に、『地震などの災害対策は各方面で常に行われているが、防ぎきることはす可能に近い。如何に被害を軽く防ぐことがでくるか、前記した歴史的文化財等による過去の被害や、対応を知ることで、各人が地震対策に関心を深め、常に心掛けでゆくことになればと思う。』と結んでいます。
「白子町史」
第三章「江戸時代における生活の展開」
第六節「自然の災害と郷土」より
現在のように科学のすすんだ時代でさえも、自然の災害によって大きな被害をこうむることはまれではない。農業生産の立場からみて、風害・水害・旱害などは災害のなかでも代表的なもので、しばしば被害をこうむる。まして、現在とくらべれば比較にならないほど原始的な技術段階のあった江戸時代の村々の生産生活を、年々まっとうするためには、農民の苦労はなみなみならないものがあった。
殊に郷土の村々は「水干両損」の村で、大水がでても、またひでりがつづいても、ともに大打撃をうけるというありがたくない環境の村々であったといってよい。
・・・・・
大水や旱魃は江戸時代を通じて、むしろ日常茶飯事のことであったといってよいだろう。災害としては、郷土の村々は九十九里浦に面しているから何といっても地震による津波の被害がもっとも大きく、人々をして恐怖のどん底におとしいれたであろう。
古く慶長六年(一六〇一)十二月には安房から上総にかけて大地震があり、これによって大きな津波がおこったごとくである。「房總治亂記」(略)によればここにあげられている地名は、三十五ヶ所であるが、いうまでもなく南白亀、牛込、剃金は郷土の村である。これによれば被害の範囲は南は房州から北は片貝にいたる巾でかなり大きな津波であることがわかる。この記載にもとずけば、郷土の村もその被害をこうむっているが、その被害内容を証明する史料は、目下のところ何も見当たらない。
慶長の海嘯については、「房総軍記」にも記載がある。(略)
この大津波はかなりの人的物的被害をあたえたことは間違いなく、茂原市鷲山寺の門前にある供養碑碑文によれば、正面には南無妙法蓮華経と題し、裏面には「維時寶歷三癸酉十一月廿三日」とある。したがってこの供養碑は大津波のあった元祿十六年から、五十一年後にあたる寶暦三年、死者の供養を営んだ時のものである。ところで正面(表)には溺死者の数を列記している。すなわち八百四十五人一松郷中、三百四人幸治村、二百二十九人中里村、七拾人八斗村、八人五井村、二七二人古処(所)村、四十八人剃金村、七十三人牛込村、五十五人濱宿村、二百□拾人四天寄(木)村とあり、郷土の村々(幸治、中里、八斗、五井、古所、剃金、牛込、濱宿の八ヶ村)の人数はあわせて一〇五九人となる。しかしこの各村の溺死者の数は、まさしく各村々の居住民の溺死者人数を示すものかどうかは念のために別に検討を要するであろう。
なお、本供養碑の右側には「元祿癸未歳十一月廿二日夜丑刻大地震東海激浪溺死都合二千百五十余人死亡允癸酉五拾一年忌営之」と記され、左側には「天下和順開山日弁聖人日月晴明長圀山鷲山寺、施主、門中、男女」とある。これによれば元祿の大津波は元祿十六年十一月二十二日の夜丑の刻(夜一時から三時までの間)に起こったこと、この供養碑にもとずく限りにおいて、溺死者は二、一五〇余人である。この数字はもちろん、一松郷外九ヵ村の溺死人数であり、激浪をうけた東海全域の溺死人数を示すものではなかろう。
つぎに郷土の村々に残っている埋葬地を見てみよう。
まず牛込の南入地墓地には、つぎの記載がみられる供養碑がある。正面には、
「 元祿十六歳舎癸未
南無妙法蓮華經東海激浪溺死五十七人巳來七人精霊
十一月廿有三日 」
とあり、これは寛政十一年(一七九九)施主牛込村男女、世話人同村信者中により行われた百年忌の供養碑である。
古所の通称「つなしろ様」とよばれる津波供養碑によれば元祿十六未十一月二三日津波諸精霊老若男女二百七十余人とあり、二百七十余人の供養碑であり、十三回忌にあたる正徳五年(一七一五)十一月二三日の供養碑であることがわかる。
幸治にある無縁塚は俗に津波精霊様とよばれ、古老の言によれば水死者三百六十余人を葬ったものという。この場所には高さ凡そ六〇糎の石塔が立っている。古老のはなしによれば、幸治の津波の避難者は多く高谷原、高根本郷村に向かって逃げたが、 沼方面の水量が高まり、逆水のため板ばさみとなり多数の溺死者を出したという。
中里の無縁塚(鬼人台)は元祿の津波の水死者を葬ったという。石塔はなく埋葬数も詳らかではない。
八斗高の無縁塚(森川源白氏宅後方の墓地)は約三坪の広さで石塔はないが、元祿津波の水死者を葬ると伝えられる。埋葬者数は不明である。
また五井高の上人塚と、牛込の下村竜宮台も元祿津波の溺死者の埋葬地であるという。牛込の竜宮台は溺死者十数名を葬ったと伝えられる。
このようにみてみると、村々の元祿津波による溺死人数等については、厳密な意味においてはたとえば過去帳と照合しながら検討する作業が残されてはいるが、とにかくわれわれの想像以上の大災害であったことは明白である。ちなみに前述した茂原市鷲山寺の門前に存する供養碑に記されている郷土の村々の水死数を合すると、一〇五九人というおどろくべき人数である。この数字が郷土の村々の居住民の死亡人口のみではなくとも(他村の避難民等も含まれていると想定しても)その被害がいかに大きかったかが明らかであり、いまさらながら津波のおそろしさをまざまざと示すものである。今後の災害対策の上からも、往時の地理的景観と海水の侵入状況、その被害状況を適確につかんでおき、どういう条件下に水死者が多く出たか等を今後つきとめる必要がある。
以上は人的被害についてである、この外に家屋、耕地等の被害も甚大であったろう。一面泥沼となり田畑の区別もつかなくなり、もちろん作物の被害があることを忘れてはならない。津波によって受けた多くの人的、物的資源の被害はおそらくわれわれの想像をはるかに越えるものがあろう。いますぐさまその被害の状況をつぶさに明らかにし得ないことをかなしむ。今後大いにわれわれ町民一人一人が一体となって少しでもその実態を明らかにする努力をつづけよう。もっともさいわいなことに、池上誠氏(子母佐)の先代が記した「一代記 付り津波の事」(池上誠家文書)がある。これは、まさしく元祿の津波に遭遇し、あやうく一命をとりとめた同家の先代が、その時の生々しい経験をもとにして貴重な見聞、体験をのべている。つぎにその記載をみよう(原文のまま)。
「(前略)
元祿十六癸未年夏旱魃シテ冬寒強星ノ氣色、何トナク列ナラズ、霜月廿ニ日ノ夜子ノ刻ニ、俄ニ大地震ニシテ無二止時一、山ハ崩レテ谷ヲ埋、大地裂ケ水湧出ル、石壁崩レ家倒ル、呻軸折レテ世界金輪在ヘ墜入カト怪ム、カヽル時津波入事アリ卜テ、早ク逃去者ハ助クル、津波入トキハ井ノ水ヒルヨシ申傅ルニヨリ、井戸ヲ見レバ水常ノ如クアリ、海邊ハ潮大ニ旱ル、サテ丑ノ刻バカリニ、大山ノ如クナル潮、上總九十九里ノ濱ニ打チカヽル、海ギワヨリ岡江一里計打カケ、潮流ユク事ハ一里半バカリ、數千軒ノ家壊流、數萬人ノ僧俗男女、牛馬鶏犬マデ盡ク流溺死ス、或ハ木竹ニ取付助ル者モ冷コゞエ死ス、某モ流レテ五位(五井)村十三人塚ノ杉ノ木ニ取付、既ニ冷テ死ス、夜明テ情アル者共藁火焼テ暖ルニヨッテイキイツル、希有ニシテ命計免レタリ、家財皆流出ス、明石原上人塚ノ上ニテ多ノ人助クル、遠クニゲントテ市場ノ橋、五位(五井)ノ印塔ニテ死スル者多し、某ハソレヨリ向原與次右衛門所ニユキ一兩日居テ、又市場善左衛門所ニ十日バカリ居テ、觀音堂長右衛門所ニ十日バカリ居テ、同所新兵衛所ノ長屋ヲカリ、同年極月十四日ニ遷テ同酉ノ夏迄住ス、酉ノ六月十三日古所村九兵衛所ニ草庵ヲ結ヒ居住ス、妻ハ觀音堂ニテ約諾シテ同十七日引取ル(後略)」
これによれば、元祿の大津波は海際より岡へ一里ばかり潮がおしよせ、潮の流れは一里半にも及んだとしている。そうして上総九十九里浜において数千軒の家がおし流され、数万人の僧俗男女から、牛馬鶏犬まで溺死したとある。
この筆者は五井村の十三人塚の杉の木にとりついたが、冷えてすでに仮死状態になっているところを、なさけある人々が藁火で暖めてくれて一命を免れたといっている。特に市場の橋や五井の印塔で死んだ者が多く、明石原の上人塚の上では多くの人が助かったとのべている。この記載は、大津波目撃者であり、体験者(被害者)がしるしたものであるところに大きな特徴があるが、郷土における被害状況を参考にするとともに、かつ地震があった節にこのころの人々が、津波がある場合は井戸の水が干るという経験的な勘を心得ていたことがわかる。特に津波の際の教訓として「後来ノ人大成ル地震押カヘシテユル時、必大津波ト心得テ、捨ニ家財ヲニ早ク岡江逃去ベシ、近邊ナリトモ高キ所ハ助ル(中略)家ノ上ニ登ル者多家潰レテモ助ル、如此ヨク々可レ得レ心」とのべており、津波の際の心得事項が大いに参考となるであろう。 ・・・・・・・
ところで、郷土の村々の一部は海水が進入して耕地が泥沼のようになり、悲惨な情景がくりひろげられたと想像されるが、このことを直接ものがたる史料は現在見当たらない。
(中略)
津波の被害を問題にするとき、九十九里浦の漁業経営はもとより致命的な打撃をうけたことが想定できるのであるが、もともと九十九里浦の地曳網漁業は、関西漁民の技術伝播により成立したばかりでなく、その初期の操業には多分に関西の出稼漁民が関係していた模様である。大体関西漁民は近世前期にはこの九十九里浜を含めた関東沿海一帯に出漁し、鰯漁業に当っていた。しかしこのような関西漁民の関東出漁も、元祿年間には打続く不漁と津波により決定的な打撃をうけたため衰退期に入ったのである。すなわち元祿十六年の大津波をさかいに従来の活動は跡を断ち、これに代って地元漁民による地曳網漁業が一般化したとみられるという(荒居英次「近世日本漁村史の研究」)。このような立論の信憑性を確かめる上からも今後可能な範囲において、元祿段階における漁業経営の内容と、津波による被害度合の追求が重要であろう。 (後略)
古山先生は、地元にあって長く歴史地震の研究し、とくに房総に大きな被害をもたらした元祿地震について調査研究されてきた郷土史家です。
古山先生によれば、
《元祿津波犠牲者数ワースト10市町村別被害状況》
①長生郡白子町 1,155人余 鷲山寺供養塔台座10カ村の内8カ村が現在の
白子町
②長生郡長生村 908人余
③鴨川市 900〜1,300人 『万覚書写』(牧野家文書)外
一宮町東浪見の牧野家に伝わる「萬覚書写」明和8年(1771)
12月による
④旧安房郡天津小湊町 408人余 誕生寺史料等
⑤安房郡鋸南町 331人余
⑥山武郡大網白里町 313人以上
⑦旧和田町(現南房総市) 155人以上
⑧山武郡九十九里町 130人以上
⑨館山市 96人以上 ◆◆
⑩旧成東町(さんむ市) 96人以上
《九十九里浜南部・長生郡白子町で甚大な被害が出た要因》
① 地震・津波の発生が厳冬の夜中(新暦12月31日の午前2時頃)であること。
② 九十九里浜南部は、津波が高く(推定4〜5㍍)内陸深く浸入したこと。
一波・二波(最も高い)・三波と続いた。「・・・表にて大太鼓打ち候如く鳴り響き、一の波、続いて二三の波押し入り」とある。(「飯高家文書」九十九里町粟生)
九十九里中央部(木戸川)を境に、北部の被害は少なかった。(供養碑や記録類が殆ど無い)
③ 元祿時代は九十九里浜のイワシ豊漁期であったこと。
九十九里浦で多数の溺死者が出た背景の一つに、地曳網漁の成長が考えられる。元禄時代は「イワシ」の第二豊漁期であった。海岸納屋には漁民(水主)達が、何時でも出漁できるよう寝泊まりし、厳冬の真夜中に津波に飲み込まれている。当時紀州からの旅網漁民も多数犠牲になっている。もちろん、地曳網船や漁具などは壊滅。津波により運ばれた塩土は田畑を被い、幾年も耕作できない状況が続き、農民や漁民の生活はかなり苦しかったことが古文書などから読み取れる。
④ 白子町の海岸線は約6㎞しかないが、中央部に南白亀川が流れていること。しかも、この川の周辺は低湿地帯をなし、津波が内陸奥まで浸入し易い地形であったこと。白子町関小母佐の池上家文書にも書かれている。
⑤ 慶長地震・津波(1605年、M7.9)、延宝地震・津波(1677年、M8)の被害は、九十九里浜でも相当大きかったものと推定されるが、時の経過にともない地震→津波という教訓が忘れ去られていたのではないかと思われる。
伊藤一男氏 (横芝町文化財審議会会長・「九十九里地域文化研究所」主宰)
伊藤氏は、東日本大震災であらためて注目されている氏の著書「房総沖巨大地震 元禄地震と大津波」(崙書房刊、1983年初版)の最後で、「終『岡へ逃げるべし、高き所は助かる』ー一枚の古文書の教訓——」で、白子町関小母佐の池上家文書の一節を取り上げています。
「従来の人、大なる地震押し返して揺るとき、必ず大津波と心得て、家財を捨てて早く岡ヘ逃げ去るべし。近辺なりとも高き所は助かる。(中略)家の上にのぼる者多し、家潰れても助かる。」とも記している。大地震が押し返して揺れ続く場合、必ず大きな津波を警戒し、家財を捨てて台地に逃げるのが得策 ーと避難の心得を説いている。またあまり遠くに逃げないで近くの微耕地に非難することと説いており、三陸地方の伝承と共 に現代にも通じる貴重な教訓である。・・・(中略)・・・
海辺の地震―それは何より明白な津波警報である。このことを一枚の古文書は教えている。
と著書を結んでいます。ぜひ一読をお薦めします。
「稲むらの火」の教訓は
幕末の1854年に起きた安政大地震による大津波襲来に際して、醤油屋当主・浜口梧陵は稲むらに火をつけて高台に村人を誘導して、事なきを得ました。この話は現在の和歌山県広川町での実話であり、地元小学校の教師中井常蔵が作品化し、「稲むらの火」として教科書に採用され、有名になった。また、浜口梧陵は銚子でも醤油屋を営むなど千葉県にもゆかりの深い人物です。
この浜口梧陵の評伝を『津浪とたたかった人 浜口梧陵伝』(新日本出版社刊)を著した戸石四郎氏は、今回の東日本大震災にあたって、この「稲むらの火」の教訓を次の様に強調しています。
「稲むらの火」の教訓こそ最高の津波対策であることを強調したい。今回の津波は、10㍍高で二重の防潮堤などにも一定の役割はあるが、図り知れぬ自然の猛威に対し、万里の長城のように、全国の海岸を高い堤防で囲うことは不可能である。それにも増して「即刻高みに逃げる」という「心の防波堤」を築くこと、その教育と訓練が大事であろう。もちろん、歴史の教訓を今後のまちづくりに活かし、高台への集約化や、堅固な5階以上の建物の適正配置を図るなどが求められよう。さらには梧陵が唱え実践した「住民百世の安堵を計る」防災・復興政策とその実現を切に望みたい。それが今次被害者の方々への、私たちの心の鎮魂碑であり責務だと考える。
防災誌「元禄地震ー語り継ごう 津波被災と防災」(千葉県刊行) 参考に一読を!
「防災誌」より
『津波への心得六か条』 ●海辺では 揺れたらすぐに 高台へ
●ゆったり揺れ 小さな揺れでも 津波来る
●揺れずとも 津波警報 即逃げろ
●海遊び 注意報でも あなどるな
●繰り返し 津波は襲う 気を抜くな
●日ごろから 家族で確認 避難場所