(1) お稲荷さまは狐のイメージ
「お稲荷さま」といえば誰でも、赤い鳥居、狐の石像、「正一位稲荷大明神」の幟を
すぐに思い浮かべることだろう立派な社殿をもつ稲荷社はもちろんのこと、街角に祀られた小さな祠でさえも
「正一位稲荷大明神」の幟が立っていることが多い。
しかし、最近は狐のイメージがマイナスにはたらくためか、稲荷に対して一歩引いてしまう人が多いようだ。
昼でも薄暗い林の中に赤い鳥居が何十本と建ち、その奥に狐の像が置いてあるのを見ると、
一人では怖くてとても近づくことさえできない、というのだ。
(2) 農耕の神さま
稲荷は、その名の示す通り、もともとは農耕の神として信仰された。
古代の人びとは、すべての穀物には、霊力(穀霊)が宿ると考え、稲には稲の霊力・
稲魂とは、稲に宿ってその育成や豊作・不作を左右する霊力である。
人びとは、古くから春に田の神が山から下りてくることを迎え、その年の豊作を祈り、秋、収穫を終えると初穂を捧げて神に感謝した。
また、田の神と一緒に、捧げた初穂(お米)を食べることによって、稲魂を自らの体内に宿し、力を得ることができると考えた。
このような田の神や稲魂に対する信仰が、その後稲荷信仰として発展したと考えられる。
田の神は、秋の収穫祭の後、山に帰る。狐は、神さまが山と里を往復するときの先払い(ミサキ)をつとめる。
(3) 狐は神の使い
狐は、稲荷の使いであると古くから信じられてきた。なぜだろうか?
稲荷神社の祭神は、
狐の古名「ケツ」と結びついて稲荷と狐がセットにされたという説がある。
春先に山から里に下りてきて秋の終りにまた山に帰るという狐の習性が、田の神が春先に山から下りてきて秋の収穫後に山に帰るという動きとぴったり一致すること。
また、狐の色がたわわに実った稲穂の色と重なり合うこと。狐が里近くの田のほとりや丘、塚穴などを住処としていて、田の周りをうろつく姿がしばしば人に目撃されたこと。
このような複合的な状況が重なって、狐が稲荷の使いとされたのではないだろうか?
日本には古くから狐には霊力があるという信仰があった。狐は人に予言する役目、とりわけその年の農耕の豊作・凶作を予言する役目を果たすと信じられた。
狐は単なる稲荷の使いという以上の存在なのである。人びとは狐そのものに霊力があると信じたのである。
神の使い(神使)は、狐だけではないが、狐のように神使そのものが霊力をもつ存在として信仰の対象とされたことはほとんどない。
狐はその意味で特殊な存在である。これは、狐が稲荷神とは無関係に、広く一般に霊異的存在と見られていたことを物語っている。
(4) 稲荷の起源
稲荷社の総本宮は京都の伏見稲荷大社である。
創立の伝承は、奈良時代の地誌「山城国風土記」に次のように載っている。
秦氏の先祖の伊侶具(いろぐ)という金持ちが餅を的にして矢を放ったところ、餅は白鳥になって飛んでいき、
止まった山上に稲が生じた。不思議に思った伊侶具はそこに神社を建て、伊奈利(いなり)と名付けた。
それが和銅4年(711)2月初午の日と伝えられてきました。
この話の「稲が生じた」という部分は、「伊禰成利生ひき」と表現されている。このことから「イナリ」は「稲生り」から生じたことがわかる。
また、「稲荷」の文字は、豊かに実った稲を荷なって(担って)神に捧げる姿を想像して当てられたといわれている。
(5) 狐憑きと流行り稲荷
狐はなみなみならぬ霊力の持ち主であり人間にのり移ることがあると、古来より広く信じられてきた。
江戸時代に書き残された文献を見ると、狐に取り憑かれ、のり移られるのは、若い女性か年季奉公人の小僧であることが多かったらしい
狐憑きをきっかけにして創建された稲荷は「流行り神」的に繁盛することが多かった。
神は、空気のような存在で全く目には見えないし、その声を聞くこともできない。ところが「狐憑き」は、人びとが「確かにこの目で見た」
「(狐の)声を聞いた」と言えるだけに、人びとの評判になりえたのであろうか。いずれにしても、狐憑き由来の「稲荷」は人びとの関心を集めたのであった。
(6) 正一位稲荷大明神(しょういちいいなりだいみょうじん)
稲荷社に「正一位稲荷大明神」と朱色に染め抜いた幟が何本も立っていることが多い。これは、他の神社と比べて極めて特異なことである。
「正一位」は、朝廷から与えられたくらいを表す。人間に対しては、「正一位」から「小初位下」まで三十階の位があった。
神には、「正一位」から「正六位上」まで十五階の位が用意された。稲荷社にはためく「正一位」の幟は、稲荷は神の中で最高の位であることを誇示している。
しかし、稲荷の「正一位」という神階は、実は、朝廷から与えられたものではない。江戸時代に幕府から神道の家元として認められた吉田家が、朝廷の許可を得ずに与えたものである。
(7) あらゆる願いに応えるお稲荷さま
稲荷は、もともとは稲の豊作をもたらす農耕神であった。ところが室町時代になると都会では商売繁盛の神として信仰されるようになり、
漁村では、漁業の神として信仰されるようになった。それは、稲の順調な生育を助ける稲荷神が、生産された稲(米)の流通をも助けている。
すなわち商取引にも関係していると信じられたからである。さらにこの信仰は、米だけでなくその土地土地で生産される特産物についても、
稲荷に祈れば、商品がスムーズに流通し利益が得られるという信仰に発展した。
また、江戸では、修験者や法印、巫女などの民間宗教者たちの働きによって、稲荷は病気治しや安産、失せ物探しなど庶民のあらゆる願いに応えるようになった。
このように稲荷は、人びとの身近にあって、あらゆる願いを聞き届けてくれる神として信仰を集めた。