酒井氏は戦国動乱期の上総
酒井定隆は、土気の城主の先祖であって、文武両道の達人であった。永享七年(1435年)生まれ。
土気古城再興伝来記によると遠江
京に上り当初室町幕府で将軍義政
その後関東に来て鎌倉公方(のちの下総
第三の主人を求めて安房
定隆の生長した時代は、応仁の大乱のあった時代で無秩序の時代で一旗あげるには都合がよかった。
酒井定隆坐像 |
守護大名から戦国大名への転換期、世は下剋上といって、下級の武士が大名へ、農民から武士階級へ、 もちろん農民社会でも既成の権力は否定された。社会は、空文化した古い権威を否定して新秩序の確立をめざす時代であった。 遠州でかかる時代に育った定隆は、野心家であった。時代感覚も鋭敏で、主従関係はただ自己の利害からのみ算出されて、 一飯の恩などというものは少しもない。里見をたよったのは里見の創業期であり、里見家の秩序はまだ確立していない。 だれでもよい。実力さえあればすぐ重要ポストに付けたからである。土気古城再興伝来記には里見義豊をたよってきたと 記述されているが少し年代がちがっているようである。定隆が上杉成氏から離れた時を成氏が古河に移ったとすれば一四七一年である。 この時定隆は自己の考えをはっきり述べている。国を出てから主君につかえたがそれは主君に忠をつくすためではない。 名を立て家を発せんためであると独立し、大名になることが目的であるとはっきり言っている。 里見義豊との主従関係が誤っていると考えられるのは義豊は里見四代に相当し天文三年(一五三四)二十一歳の時 従兄弟実堯と戦って敗死しているのでその生年は一五一三年と推定される。従って定隆が房州にはいった頃はまだ生まれていない。 |
里見家の初代の義実は存命中で二代成義の全盛期でこの成義の時に大体上総をその勢力圏に収めたので成義につかえたと考えられる。 定隆は形勢の悪い成氏をすてて旭日昇天の成義を主人に選んだ。世はひとり武士のみでなく社会一般がそのような空気で宗教界でも天台真言の既成宗教に対し新興教団が多発発生した。新興の一派日蓮宗の僧に日泰という人がいた。日泰は、永亨四年(一四三二年)十月、定隆と同時代に京都洛陽の白河に生まれた。僧たらんとして天台に学んだが僧侶として栄達するにはやはり新興派の方がよいので日蓮宗に改宗し京都から関東に下り文明元年(一四六九)三十二歳の時浜野の廃寺を興して日蓮宗の寺として付近の住民に日蓮宗を布教していた。文明6(1474)年定隆は古河公方足利成氏の下を辞し、安房の里見氏の下へ赴く途中、品川から帰る日泰と同船した。野望に燃える両勇の船旅ともに天下国家を論じたのである。 | |
品川を出て一里ばかり進んだ所で、転覆せんばかりの猛風に見舞われ、船は木の葉のように翻弄された。乗船の人々は周章狼狽すること限りなく、定隆は海中の藻屑となる非運を嘆き、拳を振り上げて、天道は我が武運を助けてくれぬのかと呪った。 この時、同乗していた僧日泰(42歳)なる本行寺の住僧が、船の舳先に立って、題目【南無妙法蓮華経】を唱えると、不思議にも風はたちまち鎮まり、乗船の人々は難を逃れることができた。定隆(39歳)も感心して日泰を尊敬するようになった。船中の交誼は陸上まで続き、浜野の寺で互いの将来の希望を語り合ったらしい。 |
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定隆はその法力に感嘆し、「自分が一城の主となった暁には、貴僧を迎え、領内ことごとく宗門となし、今日の御礼と致しましょう」と約束した。定隆は日泰と別れて里見につかえ、出世して一方の大将となった。けれども彼は、里見子飼の家臣ではないのでその領地は最も危険な場所、すなわち勢力分野の確定していない里見領の最先端、下総と上総の境中野に配置された。中野は東金千葉街道の中央の台地である。台地であるから多少の起伏はあっても戦国野戦の城としては適当でない。台地は狭長な谷間にわずかの水田があるだけで、大部分は山林で生産力が低い。定隆は台地から低地に手を延ばし、東金・大網方面を手中におさめた時土気に城を築いた。ときに長亨二年(一四八八)のことであり、古河の上杉氏と別れて十七年目に彼の希望は達せられた。小なりといえ、一国一城の主となったのである。定隆の心中を察することができる。土気入城後最初の行事には日泰を招待することであった。使者を浜野にたてて丁重に御招待申し上げた。いよいよ当日は全員の武士と農民の代表まで参加させて迎えた。土気城はそれほど大勢の人を入れる建物が無いので野原に青竹で四方を囲んだ粗末なものであった。建物はなくとも、特別な料理はなくとも定隆の真心はあった。心からのもてなしに感激した日泰は青竹の一室を精舎とよんだ。急造のの青竹の囲いの場所を精舎と呼ばれたので定隆も喜び必ず立派な寺を建てることを約束し寺号をつけていただきたいといったので、如意宝珠山本寿寺 |
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なお、定隆は長享 「御触 此度御領内村々思召を以て法華宗に仰出され候もっとも之れまで法華宗之処の者は其のままにおかるべく候、 外宗の儀はのこらず日蓮法華に相なるべくもし違背の者之あらば曲事となすべきもの也 申五月十八日 栗 原 勘 七 宮 島 信 七 村 々 名 主 中 |
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申年はちょうど一四八八年の定隆が日泰を招待した年であるのでこの時この布告を出したであろう。領地の拡張する際にこの布告通りに日蓮宗へと改宗が行われた。以下に変転極まり無い時代といえ領主の一声で改宗される。このことは戦国大名の権力の偉大さを証する重要なことである。戦国大名は自己の支配下の領民に対し絶対権を握り、政治・経済・司法・宗教ち自己の意思通りになったのである。それだけに、住民の社会的地位は低く奴隷同様であった。ただ、気力ある農民や商人は武士にも大名にもなり得たところに他の時代と異なるところがある。七里法華の影響は茂原市にも及び、このとき改宗に応じなかった僧が処刑されたという伝説が二宮の庄吉にある。俗に聖人塚と呼び、俚伝によれば改宗に反抗した僧侶十数人が処刑され、里人がきのどくに思い遺体を埋め、塚を作り、殉教者の霊をとむらったといわれている。もちろんこの記録が庄吉にあろうはずはない。一夜にして七里四方を改宗させる権力者に反抗できる人は領内にいなかったからである。 |
出典 「茂原市史」(茂原市史編さん委員会)
出典 「市原市史」(中編)
出典 「七里法華物語」(赤尾 浩志)
出典 「七里法華の由来」(朝倉 俊幸)
出典 「房総の郷土誌」(第3号)
出典 「日泰さま」(心了院日泰上人第五百遠忌報恩事業委員会)平成17年発行