欄間について

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 茂原市 広報もばら(2007年(平成19年)10月1日号文化財:322)に龍鑑寺の欄間の紹介が掲載されました。
  以下、掲載文を紹介いたします。

 七渡小字(こあざ)元北原に、日蓮宗龍鑑寺がある。寺伝によると、大同二年(807)弘法大師空海の開基とあり、はじめ龍堂寺と号した真言宗の名刹であった。
 長享二年(1488)、土気城主・酒井定隆は、領内の寺院悉(ことごと)く日蓮宗に改宗(いわゆる七里法華)させ、時の住職は寺宝を持って報恩寺に難を逃れた。その後、龍鑑寺と寺号を改称し、現在地に創建したとされる。
 本堂内外陣(げじん)境問の欄間(らんま)三面は、彫工(彫刻師)長坂友雅の作で、寛政十年(1798)に仕上げている。本所報恩寺橋に居を構え、寛政から天保年間に活躍した江戸の名工である。
 彫工世系図(せいけいず)(東京国立博物館蔵)によると、大工彫刻は左甚五郎(応永頃の人なるも未だ審(つまび)らかならずとしている)を濫觴(らんしょう)とし、長坂は甚五郎の末葉、乗吉から9番目にその名がみられる。
 江戸時代、「江戸彫物御三家」と呼ばれ活躍したのは後藤、島村、石川である。後藤家の元祖は後藤茂右衛門正綱で、名人なりとあり、宝暦二年(1752)58歳で没している。
 長男正道が名跡を継ぎ、次男正常が三代目を継承。名人であり、門人を16人も輩出した長坂家の元祖である。
 欄間中央に「桐に鳳凰」、左右に「阿吽の唐獅子牡丹」を配している。
 本願主は第21世観通院日明大徳院とあり、世話人は白井一郎右衛門以下数名がみられる。
 三面とも彩色が施され、当時は豪華絢爛な欄間だと推定できる。鳳凰は想像上の鳥であらゆる鳥の中の王であり、めでたい鳥とされている端鳥で、鳳が雄で凰が雌と言われている。徳のある天子が世に現れた時に出現するという。
 獅子も想像上の動物であり、「百獣の王」ライオンがモデルとされ、戦国の大名に好まれた題材である。また、仏の説法のことを喩えて「獅子吼」(ししく)という(百獣を威圧するが如く、仏の説法は悪魔や外道を屈服させ、万人を救うという意)。
 長坂友雅の作品は数少なく、近在では薬王寺(東金市上布田)に欄間三面(寛政十二年)の大作が見られ、「波に昇竜の図」、「禅琴夫人玉巵(ぎょくし)の図」、「馬師皇の図」が配されている。
 文政七年(1824)に本國寺(大網白里町)の客殿に「八方睨みの龍」、木鼻に「波に亀」、笈形(おいがた)付き大瓶束(たいへいつか)には「大和松に鶴」があしらわれている。
 江戸の名工に仕事を依頼できたことは、当時それだけの財力がなければ頼めない筈で、住民が富裕であったことや住職も浄財を捻出できる経済的能力を持ち合わせていたことなどが考えられる。
 このように、一地方において名工の作品に触れられることは、大変貴重で価値がある。
       茂原市文化財審議会委員 片岡 栄 氏が執筆されておられます