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● 法事チェック-----没年を入れると年忌の一覧表が出ます… ● 忌日法要日チェック-----忌日法要は死後七日ごとに四十九日まで行います。 |
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本 堂 無縁仏 釣り鐘堂 日泰供養碑 2010年櫻並木 昭和30年12月 龍鑑寺 梵鐘落慶法要 昭和50年 5月 龍鑑寺 石柱門建立 昭和61年 3月 龍鑑寺 本堂改築竣工 |
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●祭りに人あり 彫物に歴史ありで龍鑑寺の彫り物などが紹介されています |
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茂原市 広報もばら(2007年(平成19年)10月1日号文化財:322)に龍鑑寺の欄間の紹介が掲載されました。 以下、掲載文を紹介いたします。 七渡 長享二年(1488)、土気城主・酒井定隆は、領内の寺院 本堂内 彫工 江戸時代、「江戸彫物御三家」と呼ばれ活躍したのは後藤、島村、石川である。後藤家の元祖は後藤茂右衛門正綱で、名人なりとあり、宝暦二年(1752)58歳で没している。 長男正道が名跡を継ぎ、次男正常が三代目を継承。名人であり、門人を16人も輩出した長坂家の元祖である。 欄間中央に「桐に鳳凰」、左右に「阿吽の唐獅子牡丹」を配している。 本願主は第21世観通院日明大徳院とあり、世話人は白井一郎右衛門以下数名がみられる。 三面とも彩色が施され、当時は豪華絢爛な欄間だと推定できる。鳳凰は想像上の鳥であらゆる鳥の中の王であり、めでたい鳥とされている端鳥で、鳳が雄で凰が雌と言われている。徳のある天子が世に現れた時に出現するという。 獅子も想像上の動物であり、「百獣の王」ライオンがモデルとされ、戦国の大名に好まれた題材である。また、仏の説法のことを喩えて 長坂友雅の作品は数少なく、近在では薬王寺(東金市上布田)に欄間三面(寛政十二年)の大作が見られ、「波に昇竜の図」、「禅琴夫人 文政七年(1824)に本國寺(大網白里町)の客殿に「八方睨みの龍」、木鼻に「波に亀」、 江戸の名工に仕事を依頼できたことは、当時それだけの財力がなければ頼めない筈で、住民が富裕であったことや住職も浄財を捻出できる経済的能力を持ち合わせていたことなどが考えられる。 このように、一地方において名工の作品に触れられることは、大変貴重で価値がある。 茂原市文化財審議会委員 片岡 栄 氏が執筆されておられます |
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「心了院日泰(1432〜1506)に帰依した酒井定隆が、自己の領内中野・土気を中心に北は、成東、南は茂原、東は、九十九里西は、生実に及び約七里四方に跨る領内に、他宗の自院建立を許さず、悉く法華宗をもってしたので、世に上総の七里法華という」
と『日蓮辞典』には、その成立と範囲について述べられております。しかし、一般的にいって七里法華とは、上総の長柄郡から山辺郡にわたる日蓮宗寺院の密集地域と考えられています。 日泰は、京都妙満寺10世日尊の弟子で浜野の本行寺を拠点に布教活動を押し進めていましたが、長享二年酒井定隆が土気城に入ったとき招かれ本寿寺を創建し、また城の南の真言宗の寺を日蓮宗に改め 善勝寺と命名しました。この年五月十八日領内の寺院を悉く法華宗に改めるよう、いわゆる改宗令がだされたといわれています。改宗令に対しては、当然寺院側の抵抗がありましたが、武力をもつ戦国大名にかなうはずがなく、ある者は処刑され、又は、追放されました。 七渡の龍鑑寺は、元真言宗の古刹でしたが日蓮宗に改められ、住僧は寺宝をもって報徳寺(現長南町)に難を避けたといわれております。 龍鑑寺境内に安政2年(1855)に建立された日泰の供養碑があり、『七里法華開基』の文字が刻まれている。(右から2番目の写真) |
地区 コード |
連番 | 系統 | 包括団体名 | 法人名 | 市町村名 | 所在地 | 代表役員名 |
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100 | 188 | 仏教系 | 単立・仏教系 | 本立寺 | 茂原市 | 七渡1000番地 | 高谷 正妙 |
100 | 189 | 仏教系 | 単立・仏教系 | 龍鑑寺 | 茂原市 | 七渡2026番地 | 高谷 正之 |
出典:弘法大師伝説集 第二巻 P93 昭和50年12月15日初版 齋藤昭俊 著