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「白子町史」

元禄地震は、元禄16年11月23日(1703年12月31日)午前2時ごろ、関東地方を襲った巨大地震。 震源は相模トラフの房総半島南端にあたる千葉県の野島崎と推定され、東経139.8度、北緯34.7度の地点にあたる。マグニチュード(M)は7.9-8.5と推定されている。

第三章「江戸時代における生活の展開」  第六節「自然の災害と郷土」より
 現在のように科学のすすんだ時代でさえも、自然の災害によって大きな被害をこうむることはまれではない。農業生産の立場からみて、風害・水害・旱害などは災害のなかでも代表的なもので、しばしば被害をこうむる。まして、現在とくらべれば比較にならないほど原始的な技術段階のあった江戸時代の村々の生産生活を、年々まっとうするためには、農民の苦労はなみなみならないものがあった。
 殊に郷土の村々は「水干両損」の村で、大水がでても、またひでりがつづいても、ともに大打撃をうけるというありがたくない環境の村々であったといってよい。
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 大水や旱魃は江戸時代を通じて、むしろ日常茶飯事のことであったといってよいだろう。災害としては、郷土の村々は九十九里浦に面しているから何といっても地震による津波の被害がもっとも大きく、人々をして恐怖のどん底におとしいれたであろう。
 古く慶長六年(一六〇一)十二月には安房から上総にかけて大地震があり、これによって大きな津波がおこったごとくである。「房總治亂記」(略)によればここにあげられている地名は、三十五ヶ所であるが、いうまでもなく南白亀、牛込、剃金は郷土の村である。これによれば被害の範囲は南は房州から北は片貝にいたる巾でかなり大きな津波であることがわかる。この記載にもとずけば、郷土の村もその被害をこうむっているが、その被害内容を証明する史料は、目下のところ何も見当たらない。  慶長の海嘯については、「房総軍記」にも記載がある。(略)  この大津波はかなりの人的物的被害をあたえたことは間違いなく、茂原市鷲山寺の門前にある供養碑碑文によれば、正面には南無妙法蓮華経と題し、裏面には「維時寶歷三癸酉十一月廿三日」とある。したがってこの供養碑は大津波のあった元祿十六年から、五十一年後にあたる寶暦三年、死者の供養を営んだ時のものである。ところで正面(表)には溺死者の数を列記している。すなわち八百四十五人一松郷中、三百四人幸治村、二百二十九人中里村、七拾人八斗村、八人五井村、二七二人古処(所)村、四十八人剃金村、七十三人牛込村、五十五人濱宿村、二百□拾人四天寄(木)村とあり、郷土の村々(幸治、中里、八斗、五井、古所、剃金、牛込、濱宿の八ヶ村)の人数はあわせて一〇五九人となる。しかしこの各村の溺死者の数は、まさしく各村々の居住民の溺死者人数を示すものかどうかは念のために別に検討を要するであろう。  なお、本供養碑の右側には「元祿癸未歳十一月廿二日夜丑刻大地震東海激浪溺死都合二千百五十余人死亡允癸酉五拾一年忌営之」と記され、左側には「天下和順開山日弁聖人日月晴明長圀山鷲山寺、施主、門中、男女」とある。これによれば元祿の大津波は元祿十六年十一月二十二日の夜丑の刻(夜一時から三時までの間)に起こったこと、この供養碑にもとずく限りにおいて、溺死者は二、一五〇余人である。この数字はもちろん、一松郷外九ヵ村の溺死人数であり、激浪をうけた東海全域の溺死人数を示すものではなかろう。  つぎに郷土の村々に残っている埋葬地を見てみよう。
 まず牛込の南入地墓地には、つぎの記載がみられる供養碑がある。正面には、
「      元祿十六歳舎癸未
 南無妙法蓮華經東海激浪溺死五十七人巳來七人精霊
    十一月廿有三日      」
とあり、これは寛政十一年(一七九九)施主牛込村男女、世話人同村信者中により行われた百年忌の供養碑である。
 古所の通称「つなしろ様」とよばれる津波供養碑によれば元祿十六未十一月二三日津波諸精霊老若男女二百七十余人とあり、二百七十余人の供養碑であり、十三回忌にあたる正徳五年(一七一五)十一月二三日の供養碑であることがわかる。
 幸治にある無縁塚は俗に津波精霊様とよばれ、古老の言によれば水死者三百六十余人を葬ったものという。この場所には高さ凡そ六〇糎の石塔が立っている。古老のはなしによれば、幸治の津波の避難者は多く高谷原、高根本郷村に向かって逃げたが、 沼方面の水量が高まり、逆水のため板ばさみとなり多数の溺死者を出したという。
 中里の無縁塚(鬼人台)は元祿の津波の水死者を葬ったという。石塔はなく埋葬数も詳らかではない。
 八斗高の無縁塚(森川源白氏宅後方の墓地)は約三坪の広さで石塔はないが、元祿津波の水死者を葬ると伝えられる。埋葬者数は不明である。
 また五井高の上人塚と、牛込の下村竜宮台も元祿津波の溺死者の埋葬地であるという。牛込の竜宮台は溺死者十数名を葬ったと伝えられる。
 このようにみてみると、村々の元祿津波による溺死人数等については、厳密な意味においてはたとえば過去帳と照合しながら検討する作業が残されてはいるが、とにかくわれわれの想像以上の大災害であったことは明白である。ちなみに前述した茂原市鷲山寺の門前に存する供養碑に記されている郷土の村々の水死数を合すると、一〇五九人というおどろくべき人数である。この数字が郷土の村々の居住民の死亡人口のみではなくとも(他村の避難民等も含まれていると想定しても)その被害がいかに大きかったかが明らかであり、いまさらながら津波のおそろしさをまざまざと示すものである。今後の災害対策の上からも、往時の地理的景観と海水の侵入状況、その被害状況を適確につかんでおき、どういう条件下に水死者が多く出たか等を今後つきとめる必要がある。
 以上は人的被害についてである、この外に家屋、耕地等の被害も甚大であったろう。一面泥沼となり田畑の区別もつかなくなり、もちろん作物の被害があることを忘れてはならない。津波によって受けた多くの人的、物的資源の被害はおそらくわれわれの想像をはるかに越えるものがあろう。いますぐさまその被害の状況をつぶさに明らかにし得ないことをかなしむ。今後大いにわれわれ町民一人一人が一体となって少しでもその実態を明らかにする努力をつづけよう。もっともさいわいなことに、池上誠氏(子母佐)の先代が記した「一代記 付り津波の事」(池上誠家文書)がある。これは、まさしく元祿の津波に遭遇し、あやうく一命をとりとめた同家の先代が、その時の生々しい経験をもとにして貴重な見聞、体験をのべている。つぎにその記載をみよう(原文のまま)。
「(前略)
元祿十六癸未年夏旱魃シテ冬寒強星ノ氣色、何トナク列ナラズ、霜月廿ニ日ノ夜子ノ刻ニ、俄ニ大地震ニシテ無二止時一、山ハ崩レテ谷ヲ埋、大地裂ケ水湧出ル、石壁崩レ家倒ル、呻軸折レテ世界金輪在ヘ墜入カト怪ム、カヽル時津波入事アリ卜テ、早ク逃去者ハ助クル、津波入トキハ井ノ水ヒルヨシ申傅ルニヨリ、井戸ヲ見レバ水常ノ如クアリ、海邊ハ潮大ニ旱ル、サテ丑ノ刻バカリニ、大山ノ如クナル潮、上總九十九里ノ濱ニ打チカヽル、海ギワヨリ岡江一里計打カケ、潮流ユク事ハ一里半バカリ、數千軒ノ家壊流、數萬人ノ僧俗男女、牛馬鶏犬マデ盡ク流溺死ス、或ハ木竹ニ取付助ル者モ冷コゞエ死ス、某モ流レテ五位(五井)村十三人塚ノ杉ノ木ニ取付、既ニ冷テ死ス、夜明テ情アル者共藁火焼テ暖ルニヨッテイキイツル、希有ニシテ命計免レタリ、家財皆流出ス、明石原上人塚ノ上ニテ多ノ人助クル、遠クニゲントテ市場ノ橋、五位(五井)ノ印塔ニテ死スル者多し、某ハソレヨリ向原與次右衛門所ニユキ一兩日居テ、又市場善左衛門所ニ十日バカリ居テ、觀音堂長右衛門所ニ十日バカリ居テ、同所新兵衛所ノ長屋ヲカリ、同年極月十四日ニ遷テ同酉ノ夏迄住ス、酉ノ六月十三日古所村九兵衛所ニ草庵ヲ結ヒ居住ス、妻ハ觀音堂ニテ約諾シテ同十七日引取ル(後略)」
 これによれば、元祿の大津波は海際より岡へ一里ばかり潮がおしよせ、潮の流れは一里半にも及んだとしている。そうして上総九十九里浜において数千軒の家がおし流され、数万人の僧俗男女から、牛馬鶏犬まで溺死したとある。
 この筆者は五井村の十三人塚の杉の木にとりついたが、冷えてすでに仮死状態になっているところを、なさけある人々が藁火で暖めてくれて一命を免れたといっている。特に市場の橋や五井の印塔で死んだ者が多く、明石原の上人塚の上では多くの人が助かったとのべている。この記載は、大津波目撃者であり、体験者(被害者)がしるしたものであるところに大きな特徴があるが、郷土における被害状況を参考にするとともに、かつ地震があった節にこのころの人々が、津波がある場合は井戸の水が干るという経験的な勘を心得ていたことがわかる。特に津波の際の教訓として「後来ノ人大成ル地震押カヘシテユル時、必大津波ト心得テ、捨ニ家財ヲニ早ク岡江逃去ベシ、近邊ナリトモ高キ所ハ助ル(中略)家ノ上ニ登ル者多家潰レテモ助ル、如此ヨク々可レ得レ心」とのべており、津波の際の心得事項が大いに参考となるであろう。   ・・・・・・・
 ところで、郷土の村々の一部は海水が進入して耕地が泥沼のようになり、悲惨な情景がくりひろげられたと想像されるが、このことを直接ものがたる史料は現在見当たらない。   
  (中略)
 津波の被害を問題にするとき、九十九里浦の漁業経営はもとより致命的な打撃をうけたことが想定できるのであるが、もともと九十九里浦の地曳網漁業は、関西漁民の技術伝播により成立したばかりでなく、その初期の操業には多分に関西の出稼漁民が関係していた模様である。大体関西漁民は近世前期にはこの九十九里浜を含めた関東沿海一帯に出漁し、鰯漁業に当っていた。しかしこのような関西漁民の関東出漁も、元祿年間には打続く不漁と津波により決定的な打撃をうけたため衰退期に入ったのである。すなわち元祿十六年の大津波をさかいに従来の活動は跡を断ち、これに代って地元漁民による地曳網漁業が一般化したとみられるという(荒居英次「近世日本漁村史の研究」)。このような立論の信憑性を確かめる上からも今後可能な範囲において、元祿段階における漁業経営の内容と、津波による被害度合の追求が重要であろう。  (後略)