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林天然著「長生郷土漫録」より

元禄地震は、元禄16年11月23日(1703年12月31日)午前2時ごろ、関東地方を襲った巨大地震。 震源は相模トラフの房総半島南端にあたる千葉県の野島崎と推定され、東経139.8度、北緯34.7度の地点にあたる。マグニチュード(M)は7.9-8.5と推定されている。

慶長の大海嘯(だいかいしょう)  ・・・ 今をさる事三百五十年前慶長六年十二月安房から上總にかけて大地震があり続いて大きな津波が起こった。其の被害地は南は安房白濱から鴨川、小湊、北は興津、勝浦から東浪見、白潟、山武郡片貝迄、東沿岸舊四十五ヶ村に及んだ詳細な記録はないが、二三の郷土史に記してあるから参考迄に次に轉載する。
房總治亂記
 慶長六年辛丑十二月十六日、大地震、山崩れ海埋まりて岳となる。此時安房上總下總海上俄に潮引て三十餘町干潟となりて二日一夜也。・・・
房總軍記
 慶長六辛丑十二月十六日暴忽に大地震動し雷々として深山萬叡鳴動する事夥し、堂舎佛閣踊り倒され、磐石崩れて海を埋立て山となり安房上總の海、斯須に潮三十餘町干潟して平沙となる事二日一夜、諸人驚いて四方みつめ、ましろけば忽ち涌り倒され首逆になり足空になりて、さながら天地轉覆するかと眩暈す。・・・農民は家財雑具を壓流し早く逃ぐる者は助かり遅く逃ぐる者は溺死となり云々。・・・
野史 巻八
 慶長六年冬十二月十六日巳酉。上總安房大地震。山崩海埋、成獄海上。潮涸三十餘町。明日海大鳴潮溢。人畜多死。
關八州古戦録第十六巻
 天正十八年(慶長六年の誤記なるべし)十二月十六日の夜諸國一同に大地震しける中に安房上總の兩國殊更夥しく云々。
 同じき十八日子刻許り沓なる沖の方鳴動す。すさまじく聞えて黒雲の渦く如く見えたりし程に濱邊の者ども妻子を引連れ逸足を出して山上へ逃げ登りけるに暫くの後高潮打寄せて云々。

元禄大海嘯  地震學者の説によると、大地震は百年を經過せざれば再び同一場所には起こらないと。慶長六年關東に大地震起り爾來房總沿岸には數回の小津波があったが、大ツナミは無かった。所が慶長六年を去ること百三年目元禄十六年十一月二十二日江戸に大地震起り死者十餘萬人に達したという。同時に房總關東海濱は再び大ツナミに襲われた。其の被害地は南房州白濱から朝夷、長狭、夷隅、長柄、山邊、武射、等舊六郡の沿岸村落に亙り詳細の事は明瞭ではないが各郡誌、町村誌等を見ると千人塚、精霊塚、供養塔、津波塚等の遺跡がある。此処に列記して見よう。
鷲山寺門前の供養塔
 茂原町鷲巣區本門法華宗の大本山鷲山寺の入口にあり正面に 南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう) と題し、右側に 元禄十六癸未十一月二十二日夜丑刻大地震東海激浪死者都合二千百五十餘人死亡。去癸酉五十一年忌營之 とあり裏面に 維時寶歷三癸酉十一月二十三日 と記してある、寶歷三年は元禄十六年をさる事五十一年後に當り、供養として餘りにも悠長である。供養塔と相對して一基の燈籠がある里人の談話によれば大正十二年九月一日の大地震に際し二基共に横に揺り倒れ、碑の下に經文を書いた貝殻が多量に現れたと云う。


一松供養塔
 一松村本興寺境内にあり死者三百八十四人を合葬し牌記に
  維元禄十有六年癸未十一月二十二日之夜於當國一松大地震、尋場大波。・・・


幸治の無縁塚
 白潟町大字幸治區にあり、死者三百六十餘人を合葬した遺跡である。
津波精霊塚
 南白龜村字牛込にあり死者百三人を合葬した遺跡である。
 享保十一年丙午十一月貝殻に經文を書き追福の爲め之を埋め塔を立てたと云う。
  以上は長生郡内にあり此の外山武、夷隅、安房諸郡を訪ねて見よう。


津波塚
 山武郡白里町大字四天木區の鳳凰山要法寺の境内にあり
千人塚
 同郡緑海村大字松ケ谷區地蔵堂の境内にあり
千人塚
 夷隅郡御宿町袴山の麓にあり
福島の暗礁
 勝浦灣の左方八幡岬の西南一町許りの所にある。
小湊誕生寺
 日蓮の誕生地は今海となっている。
野島岬
 房州の南端白濱村にあり昔は孤島であったが元禄十六年十一月の地震及び海嘯により海が埋まり孤島と陸地との間三町許りが連接し一岬角となったという。
瀧口の亡田
 白濱村の西隣長尾村瀧口區に鎮座せる松原神社の近くにあり昔神社の後山より瀧水落下していたので村名がつけられた。