「長生郡郷土誌餘録」の項
▽「關八州古戰錄抄」—諸國大地震付安房上總洪波事
同年天正十八庚寅二月十六日の夜、諸國一同に大地震しける中に、安房上總の兩國殊更に夥しく、山崩れて海を埋め、見るが内に岳をなす處もあり、社頭佛閣寺院坊寮士農工商の家々轉倒せざるは稀なりけり。暁方に成て海上の潮俄に退き、三十餘町干潟となる。昔庚安元年七月二十四日摂津國難波の浦、數百町水涸しとかや、亦同じ年阿波國鳴渡の沖數十町干潟となり、周防國の海中には二十丈許なる島浮み出せしと云う事、□く語り傳へたれば、先十蹤なきにしもあらねど、此邊には今始ての事の如くに浦々の漁夫海人共は申すに及ばず、村里の俗男女までも、肝魂を消ざるはなし。左ればにや、波打際切崖岩のはざま〃に、辛螺、榮螺、蛸蛇、海藻、磯菜、充満て、足のふみ蹈所もなかりければ、初の程こそ自他仰天して、其あたりへ寄り附ざりしが、二日一夜の干潟なれば、里の子共無告の者所を爭ひ、走り行て、魚を捕貝を拾ふ事、幾千萬と云數を知らず。然して同き十八日子刻許沓なる沖の方鳴動す、すさまじく聞こえて、黒雲の渦く如く見へたりし程に、濱邊の者とも妻子を引連、逸足を出して、山上へ逃登りけるに、姑くの後高潮打寄て、洪波榛漲り來り、數十丈の小山の半腹まで押浸して、漁家民屋ことごとく浪に引れ、人馬の溺死其數を量り難く、堤切れ橋断へて、陸地を船にて往返をなす。惣て安房上總下總浦々四十五ヶ所一同に高波押騰たり此故に鯱の谷鯛の谷などとて、其時大魚の打入られ谷々、今の世までも遺れりとぞ。
[解説] 本書は、享保十一年丙午年某氏の編する所にして、天正十八年二月十六日夜諸國大地震、殊に房總三州の被害甚だしく、十八日の子刻更に海嘯起り、廣く太平洋沿岸を荒せしが如し、されば本郡中九十九里に沿へる漁村の如きは、皆其の難を蒙りたり。當時の惨状は本書によって其の一斑を窺へ得べし。
▽「房總治亂記抄」
「慶長六年辛丑十二月十六日、大地震。山崩れ海埋みて岳となる。この時安房上總下總の海上俄に潮引き、三十餘町干潟となりて、二日一夜なり。同十七日子の刻、沖の方夥しく鳴りて潮大山の如くに巻き上げ、浪村山の七分を打かくる。早く逃げし者は遁れ、遅く逃げし者は死したり。先ず潮災に逢ひしは、部原、新官濱、澤倉濱、小湊、内浦、天津、濱萩、前原、磯村、浪太、天面、大夫崎、江見、和田、白古邊楯、忽戸、横桶、御宿、岩和田、岩舟、矢指戸、小濱、塩田、日在、和泉、東浪見、一の宮、南白龜、一松、牛込、剃金、阿負濱、片貝、不動堂、すべて四十五ヶ所なり。」
▽「上總町村誌抄」−海嘯 「元禄大海嘯」
元禄十六年癸未十一月二十二日、本州の地大に震す、夜東海嘯き、洪濤陸に浸入し、
夷隅、長柄、山邊、武射四郡沿海の村落其害を被り、家畜を斃し、家屋を奪去せられ、
溺死する者幾千人為るを算ふ可からず。其死屍を集収し、各所に埋葬す、最著しきもの六墳たり。夷隅郡久保村の東方沙漠中に千人塚在り、當時溺死者を葬る其數詳に傅はらずと難も、千人塚の名称に因れる者ならん、今墳上牌あり。長柄郡一ツ松村本興寺境内供養塚在り、死屍三百八十四を合葬す、本寺位牌の背後に維元祿十有六年癸未十月二十二日之夜、於當國一松、大地震尋揚大波、鳴呼天乎是時民屋流、牛馬斃、死亡人不知幾萬矣、今也記當寺有録死者干名簿、勒囘向於後世者也と記す。幸治村に無縁塚在り、死者三百六十餘を合葬すと、今墳上松樹蒼々たり。牛込村の南方字古屋敷墓所中に、津波精霊と稱する一墳在り、死者百三を合葬すと、享保十一年丙午十一月経文を貝殻に書し、追福のため之を埋め、塔を建立し、亡霊を弔ふ。山辺郡四天木村の中央要行寺境内に津波溺死霊魂碑と書せし木塔在り、死者二百四十五を合葬すと。武射郡松ヶ谷村字地蔵堂に千人塚在り、死者の數詳ならず、蓋名稱に因れる者ならん、今墳上石地蔵を置く。其他自己の埋葬する者擧げて算ふ可からずと謂ふ。
〔解説〕元祿十六年十一月二十二日九十九里沿岸の海嘯は、實に惨狀を極めしものにして、死者擧げて數ふべからず、本書は、よく其の概要を記したれば、以て参考と為すに足るべし。