第6編「教育・文化」第2章「文化財」第四節「文化財に見る地震・津波の被害」より
古文書にみる地震と津波の記録
長生村は、太平洋に面する九十九里浜平野の一角にあり、・・・。このような九十九里浜の浦々に、以前から自然的風水害、地震、津波の発生が毎年のように起こっていたと当時の記録に記載されている。
牧野家文書(現一宮町)には、延宝五年(一六七七)の地震による津波で被害を被った田畑はあれ放題で、翌年苗を植えることはできないと文書は伝えている。
水口の井下田元田臺家の「先祖伝来過去帳」の記録には「元禄十六癸未年十一月廿二日夜 房総大津浪宮ノ下溜池迄水上ル夜ノ九ツ時より大地震ゆり三尺戸自然と明るく海辺は大地十二尺割れ波より先達て水堰出る依之土中ニ足フミ込逃げ候も埒明不申波ニ被付水死仕りもの凡そ七万人斗見ず死之者有之其の年極月迄不絶地震ゆりき」云々とあった。
東浪見牧野家文書には「(前略)船頭給より北ノ方段々浪多く打揚一松領三千石の家も大分ニ打ち潰シ人も千弐三百人も死ス、牛馬も大分死失申す候」と享保四年(一七一九)「覚書」に記されている。
宝永四年(一七〇七)大沼家の訴訟文書によれば「去ル未年津浪入れ種取ニ植え申す」「去ル未ノ津浪入り田畑亡所ニ罷成」云々とある。この事件は津波により一松村と宮成村との東西の堰の近くの田に苗を植えたものの、押し流されてその後荒れ田となった。これは津波が押し寄せてきて泥砂を田に運んできたものである。隣村との耕作地の境が不明である。地震により毎年田植え時期になると訴えがたえないので何とかならないか。と訴訟事件の様子が書かれている。
同家の過去帳には「同十六未ノ十一月廿二日夜ノ八ツ時より大地震ニて同時津波入り大分人死ス」とあり、別条には「(前略)同じ時ニ東海より津波入り一ツ松郷ニテハ八百人余死ス」と元禄大地震のことが詳細に墨書されている。
宝暦初期にも地震が昼夜二度あったと記され翌日は大雪となったとある。津波は猛襲したと思われ、納屋通りでは、家屋はもとより漁船、漁道具などが押し流され、老弱男女子供もあっという間に波に呑まれたという。一松より信友の神社まで波が押し寄せたと古老が話していた事を思い出す。・・・・
元禄の津波大位牌
一松本興寺の山門に二基の石碑がある。右側には「南無妙法蓮華経水 死霊 是人於佛道決定無有疑 元祿十六年癸未夭十一月廿三日 施主一ツ松村惣郷中」と刻まれ、他の一基は『元祿十六年大津浪本村死者八四五人 二百五十年忌供養塔 昭和二十七年十月二十三日営之 一松廿八題目講中』とそれぞれ刻されている。
本堂内の大位牌には法名が刻されているが数百年余を経ているので字句も薄くなり解読も困難である。
この時の状況は「夜四ッ時に三度あり 海鳴り激しく夜は八ッ半ころ津浪が押し寄せた」と文書は伝えている。夜四ツ時は現在の午後十時で、夜八ッ半は午前三時のことであった。
津浪の記録
驚の深照寺の「津波諸精霊」の記録文書には女子どもなど二〇六人死亡とあり、この辺は被害が大きかったところであった。溺死した者も多く人畜家財も流失したとある。境内には他にそれらの人々の墓石がある。
地震については最近人々は関心を持つようになった。地震の記事は「日本紀」 「続日本紀」 「類聚国史」 「日本後紀」 「続日本後紀」 「三代実録」 「文徳実録」 「日本紀略」 「玉葉」などの諸書に見られる。
十七世紀、慶長六年(一六〇一)房総地方にも大地震が発生した。・・・・
あの関東大震災は大正十二年九月一日の昼時に一瞬に起きたので幾千万の人々が悲惨な被害を被った。近年においては、千葉県東方沖地震は大きな被害をもたらした。
当時の広報ちょうせいから引用してみる。『昭和六十二年十二月十七日の千葉県東方沖の地震は関東一円のみならず広い範囲に振動を与えた。千葉県では長い間忘れていた震度五の強震を体験し、長生村でもかなりの被害を被った。
昭和六十三年一月九日、日本大学理工学部教授で理学博士の守屋喜久夫先生が来庁し、長生村内で被害の大きい所の現地調査をおこなった結果、次のような事がわかりました。
地震後、日を経ていたため液状化現象の噴砂、噴水の跡は消えかかっていたものが多かったが明らかに液状化現象による被害と認められるものがあった。
七井土の全壊した民家、建築して二年目の新しい斉藤宅。傾斜地に盛土し、家の半分がその上に乗る異種地盤。基礎に杭が打設してあったが、盛土の砂が流動して杭を破壊、移動させ家屋に被害を与えた。擁壁も動いている。斜面下の溝に噴砂がみられた。
長生村被害家屋 全壊 二棟 一部破壊 一八三三棟 (二月十日現在調)』
『◯墓石等の転倒・・・ ◯家屋の被害・・・◯今後の対策・・・以上が守屋喜久夫先生が我が村を見てまわり目で見た調査報告です。』(昭和六十三年三月一日発行広報ちょうせい三月号)・・・
そして最後に、『地震などの災害対策は各方面で常に行われているが、防ぎきることはす可能に近い。如何に被害を軽く防ぐことがでくるか、前記した歴史的文化財等による過去の被害や、対応を知ることで、各人が地震対策に関心を深め、常に心掛けでゆくことになればと思う。』と結んでいます。