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大東 顕彰碑


茂原市七渡字大東(おおひがし)の顕彰碑


七渡の南東に長生郷土漫録に掲載されています
白井鹿山に関係する顕彰碑があります。
興味が御座いましたら是非一度見学に来てください。



現在は、撤去された模様です。

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大東の共同墓地の隣にある顕彰碑
(明治二十七年三月建立 七渡南東に位置する)




白井鹿山に関係する顕彰碑です。

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(碑文)

 松雨 白井君碑銘、正四位勳四等藤島正健題額
 白井君名鼎、字一宣、通称八五郎、改静斎、松雨、其號又号采真堂主人
 上総国長柄郡七渡村人也。考日源八、妣三橋氏。為郷豪族、君長子也。
 以弘化三年十一月生。幼傷足偏廃。年甫九才、従村人白井孝右衛門受句読。
 才識冠乎儕輩。當時江戸有中村暘嶂。以善書著目、以書牘往復、受教頗。
 有所得、文久三年始、設帳教授。遠近人執贄者漸衆。慶應中、米津藩儒朽木
 脩吉郎来游。業舌耕、囚従之質疑義業大進。明治六年朝廷新頒学制、興郷学需、
 僻陬注。乏教員、君以育英、有素首受選。為小轡校訓導、後轉七渡校。
 以至明治二十六年季、其在西席者三十有余年、門生無虜幾百千人、君視之。
 猶子姪、循循誘掖干倦。闔郷靡然、嚮学。君長干富家清苦。自守而接人不立
 崖岸。天資曠達、音吐如鐘。善飲酔輙劇談。屈坐人既、又使反之、唖然而、
 笑酔。極則、陶然頽然。不復知人間。有利害得喪之事。然、其律己端厳、
 有法故、人莫不尊信。君長於数理、文部学制方用泰西算法。君創意擬其程式
 式成出而比之多所暗合云。二十七季三月七日病没。享年四十九。先是門生相議
 建寿碑。不朽其徳、有志之徒亦多賛襄者、来請余文。余與君相識有年、深服君。
 訓督之労、又感郷人懐師。徳之厚而、君男八次郎、入余門。有交、思克肖乃父。
 所謂、能幹父之蠱者也。喜而諾之叙。其平生而、會君之歿。因遂為之、銘日、
   足之不仁、何是害真。寄蹟範世、令名千春。吾文斯刻。不慙貞a。
   維郷之慶、豈止一身。
 明治廿七季三月 従五位 岡本監輔 門人白井種徳書 毛利元吉刻

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読みかた

 松雨白井君碑銘(しょううしらいくんひめい)、  正四位勲四等(しょうよんいくんよんとう)、  藤島正健題額(ふじしままさたけだいがく)
 白井君名(しらいくんな)は鼎、(あざな)一宣(いちぎ)通称(つうしょう)は八五郎。静斎・松雨と改め、()れを(ごう)し、
 又は、采真堂主人(さいしんどうしゅじん)と号す。上総国長柄郡七渡村(かずさのくにながらぐんななわたり)人也(ひとなり)考日(ちちは)源八、(はは)三橋氏(みつはしし)(ごう) 
 の豪族(ごうぞく)にして、(くん)長子也(ちょうしなり)。弘化三年十一月を(もつ)て生まれる。(おさな)くして傷足偏廃(しょうそくへんぱい)す。
 年甫(としはじ)め九才にして、村人白井孝右衛門(むらびとしらいこううえもん)に従い、句読(くとう)()くる。才識は儕輩(さいはい)冠乎(かしらか)
 当時、江戸に、中村暘嶂(ようしょう)有り。書の著目を(もっ)()くし、自ら書牘(しょとく)を往復するを以
 て、教え(すこぶ)る受くる。()所有(ところあ)りて、文久三年始め、(とばり)(もう)けて教授(きょうじゅ)す。遠近
 の人()()(もの)(ようや)(おお)し。慶應中、米津藩儒朽木脩吉郎来游(よねきずはんじゅくちきしゅうきちろうらいゆう)舌耕(ぜっこう)(なりわい)とし、
 質疑に(したが)うに()り、義業大いに進む。明治六年、朝廷(ちょうてい)新たに学制(がくせい)()け、郷学を
 興して、僻陬(へきすう)(そそ)ぐ。教員に乏しく、(くん)育英(いくえい)(もっ)て、素首受選(そくびじゅせん)有り。
 小轡(こぐつわ)訓導(くんどう)()す。(のち)に、七渡(ななわたり)校へ転ず。明治二十六(ねん)に至るを以て其の西席(せいせき)()
 る者、三十有余年(ゆうよねん)門生無虜幾百千人(もんせいむりょいくひゃくせんにん)君之(くんこれ)()る。猶子姪(ゆうしめい)循循(じゅんじゅん)として誘掖(ゆうえき)()
 む。闔郷靡然(こうごうびぜん)として学に(むか)う。(くん)富家(ふけ)(ちょう)じて清苦(せいく)す。自ら守りて、人に接す
 るに崖岸(がいがん)に立たず、天資曠達(てんしこうたつ)にして、音を()けば、(かね)(ごと)し。(いん)()くして(たちま)ち、
 劇談(げきだん)()う。坐人既(ざにんすで)(くっ)して、又は()れに反せしめて、唖然(あぜん)として笑酔(しょうすい)す。極む
 るは則わち、陶然(とうぜん)頽然(たいぜん)たり。復たずして、人間を知る。
  利害得喪(りがいとくそう)の事有り。(しか)るに、其の律に(おの)れを(ただ)して厳しく、法()(ゆえ)に人は不尊
 信する(なか)れ。(くん)、数理に()け、文部学制に泰西算法(たいせいさんぽう)を方用す。君の創意にて()の程
 式の式を成し出でて()れを(くら)べると暗合(あんごう)する所多(ところおお)しと()う。二十七(ねん)三月七日病没(びょうぼつ)
 享年四十九。(さき)()れ、門生相議(もんせいあいぎ)して壽碑(じゅひ)を建てる。。()(とく)は朽ちずして、有志之徒(ゆうしのと)
 亦賛襄(またさんじょう)する者多く()文請(ぶんこ)()たる。()(くん)相識(あいし)りて有年(ゆうねん)、深く君に服す。訓督之労(くんとくのろう)
 又郷人(ごうにん)師を懐しむるを感ず。徳の厚きにて君男八次郎、()の門にい入る。交わり
 有りて、思いは()乃父(だいふ)()る。所謂(いわゆる)能幹(のうかん)たる(ちち)蠱者也(こしゃなり)。喜びて、()()
 るを(だく)す。()の平生にて、君の歿(ぼつ)するに()いて、()って(つい)()れを()す。(めい)(いわ)く。
   足の不仁(ふじん)は、(なん)(これ)真の害たらんや。寄蹟(きせき)の範世にして、千春(せんしゅん)名令(めいせ)しむ。
   (われ)文に()(きざ)み、貞a(ていびん)()じず。()れ郷の(よろこ)び、豈一身(あにいっしん)(とど)めんや。
 明治廿七季(にじゅうななねん)三月 従五位(じゅごい) 岡本監輔(おかもとかんすけ) 門人 白井種徳(しょ) 毛利元吉(きざむ)

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主要訳

 藤島正健(ふじしままさたけ)弘化二年(一八四五)〜明治三十七年(一九〇四)旧肥後熊本藩士出身。富山県知事、千葉県知事(四代目)
 考=父 妣=母 ここでいう郷とは、七渡村のこと。君は、白井松雨自身。長子=長男
 弘化三年=(一八四六) 傷足偏廃す=怪我や病気などで片足を失うこと。
 句読=読み書きのこと 才識=才能・知識 儕輩=同輩、仲間 書牘=書簡
 文久三年=一八六三年 帳=幕を張りめぐらした中のこと 贄を執る=弟子になったしるし
 に、贈り物をすること。
 米津藩=米津氏は、一万一千石の大名。久喜藩(現埼玉県)→出羽山形長瀞藩を経て、明治維新
 時は、大網藩。 舌耕=書物を講義して生計をたてること。
 明治六年=一八七三年 学制=明治新政府は、明治五年九月に学校制度を定めた学制を公布した。
 僻陬=片田舎のこと 訓導=小等教育における教員の名称。
 明治二十六年=一八九三年 西席=師の座席 門生=門下生のこと 無虜=おおよそ
 猶子=養子 循環=規律を正しく守る 誘掖=助け導くこと 倦む=嫌になること
 闔郷=村中の人々 靡然=なびき従うこと 清苦=清廉で貧乏に甘んじること。
 崖岸=岸の切り立った崖。ここでは人との隔たりをさす 天資=生まれつきの性格。
 曠達=心が広く物事にとらわれないこと。 飲を善くす=お酒を好んで飲む。
 音を吐く=声を出すこと。 劇談=大いに語ること。 唖然=あっけにとられること
 陶然=酔って気持ちがよいこと。うっとりする。 頽然=酔っ払ってぐでんぐでんになること。
 利害得喪=利害は、わざわいをもたらすこと。 己端=己を正すこと。 法=道理のこと。
 不尊信=尊び信頼しないこと。 泰西算法=西洋の算術のこと。 暗合=偶然に一致すること。 賛襄
 =助力してしとげさせること。 訓督之労=学問を説き教えるほか門人たちの監督をする苦労、
 働き。 君男=白井松雨の子供 乃父=なんじの父という意。 能幹父之蠱者=偉大な父親の功績
 を引き継ぐこと。 不仁=手足がきかない。不自由なこと。 範世=松雨が生きていた時代は、模
 範となるべき時代であるという意。 不慙貞a=石碑としてはじないこと。 豈止一身=どうして
 自分だけに止めておけようかという意。
 岡本監輔=号は韋庵。天保十年(一八三九)〜明治三七年(一九〇四)徳島県出身。樺太開拓
 の志士間宮林蔵の影響を受ける。旧徳島中学校長。著書「大日本中興先覚志」「北蝦夷新志」

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訳文

 松雨白井君の碑銘 正四位 藤島正健題額
 白井君の名前は、鼎、字は一宣、通称は八五郎、改めて、静斎・松雨と号した。
 または、采真堂主人とも号した。上総国長柄郡七渡村の人である。父は、源八、
 母は、三橋氏。七渡村の有力者で、白井君はその長男である。弘化三年十一月に生
 まれた。幼ないときに、怪我で片足を失う。年はじめの九才で、村人白井孝右衛門
 に従って手習いなどを学び、その才能、知識は、同輩たちの上にたつほど優秀で、
 当時江戸に中村暘嶂(林泉堂という書籍を扱う主人)という人がいた。多くの書
 籍類を取り扱うことなどを専らとしており、その人に白井君は、書簡のやりとり
 をしながら、数多くの学問の教えを受けていた。考えるところあって、文久三年
 のはじめに、幕で囲った帳を設けて、人々に学問を教えた。そのためか、遠近か
 ら多くの人々が集まり、弟子になったお礼にと贈り物をする人が多くなった。慶
 應年中になると、出羽山形の長瀞藩儒であった、朽木脩吉郎が来遊した。この人
 は、藩内で書物を講義して生計を立てているもので、質疑によって議論を盛んに
 行った。明治六年に、明治新政府は、新たに学制を公布すると、郷土において
 も、盛んに学校を開いて、教育の普及に力を注いだ。未だ教員の少ない時代、
 白井君は、育英の精神をもって、教員に採用され、小轡校の訓導となり、後に七渡
 校へ転じた。明治二六年、その教職にあること三十有余年、門下生は、おおよそ数
 百千人に及び、白井君は、この状況を目の当たりにした。
 養子の姪は、規律を正しく守り、門弟たちを助け導くことに飽きてしまったが、
 村の人々は、なびき従うように学問にうちこんだ。白井君は、富家に生まれなが
 らにして、清廉で貧乏に甘んじ、自ら人に接するとき、隔たりをおかないことを
 心がけた。性格は、広く物事にとらわれず、声を出せば、鐘のような音の大きさ
 だ。酒を飲むことが好きで、あっという間に、大いに語りはじめる。周囲に座っ
 ている人は、だまって聞き入るものや、これに反して、あっけにとられて、苦笑
 いしているものもいる。酔ってほどよくうっとりとしていると思えば、ぐでんぐ
 でんに酔いつぶれている。何度も言わずともその人柄が知れる。
  利害を求める者は、災いをもたらす事あって、白井君は、その決めごとに、自
 らきちんと正して厳しく規律を守っている。道理がある故に人は、不尊信する
 ことあってはいけない。白井君は、数理に長けており、新政府が定めた教育方針
 の中に西洋式の算術を取り入れた。白井君の創意工夫により、その方程式の式を
 応用し比較してみると、一致するところが、多かったという。
 明治二十七年三月七日病気のため亡くなった。享年四十九歳。これに先だちて、
 門下生達は、互いに相談しあって、松雨先生の寿碑を建てた。先生の徳は、朽ち
 ることなく生き続け、志ある人たちは、また寿碑の建立に尽力するもの多く、
 余(岡本監輔)に碑文を書いてくれるよう頼みに来た。余は、白井君と知り合って
 長い間、深く白井君を敬服している。白井君が、教育に尽力した苦労は、七渡村
 の人たちの知るところであって、恩師を懐かしんでいる。父にも劣らず徳の厚い
 白井君の子、八五郎は、余の門に入る。交流もあって、彼の(教育に対する)思い
 は、よく父に似ている。いわゆる偉大な父の功績を引き継ぐ者である。これを喜
 んだ八五郎は、碑のはしがきの銘をのべることを承諾した。しかし、その平時
 において白井君の没するに遭遇し、よって、はしがきの銘を述べることになった。
 銘にいうには、足の不自由さが、どうして真の災いたるものがあろうか。(ちち
 は足が不自由であったとしても立派に教育者としての役割を果たした)
 父をとりまく環境は、まさに神秘的で模範となるべき環境であり、この環境、空
 間を「千春」と名づけた。私は、碑文にこのように刻んだが、石碑に残す文とし
 て恥じることはない。寿碑が建てられることは、七渡村の喜びであり、どうして
 その喜びを自分だけに止めておけようか。
 明治二十七年三月 従五位 岡本監輔 門人 白井種徳書 毛利元吉刻

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