NO11.

最後に

元禄地震は、元禄16年11月23日(1703年12月31日)午前2時ごろ、関東地方を襲った巨大地震。 震源は相模トラフの房総半島南端にあたる千葉県の野島崎と推定され、東経139.8度、北緯34.7度の地点にあたる。マグニチュード(M)は7.9-8.5と推定されている。

古山 豊(こやま)氏(大網白里町文化財審議委員・郷土史研究会会長)  古山先生は、地元にあって長く歴史地震の研究し、とくに房総に大きな被害をもたらした元祿地震について調査研究されてきた郷土史家です。
 古山先生によれば、
《元祿津波犠牲者数ワースト10市町村別被害状況》
①長生郡白子町     1,155人余
 鷲山寺供養塔台座10カ村の内8カ村が現在の白子町
②長生郡長生村     908人余
③鴨川市        900〜1,300人
 『万覚書写』(牧野家文書)外
  一宮町東浪見の牧野家に伝わる「萬覚書写」明和8年(1771)12月による
④旧安房郡天津小湊町  408人余
 誕生寺史料等
⑤安房郡鋸南町     331人余
⑥山武郡大網白里町   313人以上
⑦旧和田町(現南房総市)155人以上
⑧山武郡九十九里町   130人以上
⑨館山市         96人以上
⑩旧成東町(さんむ市)  96人以上

《九十九里浜南部・長生郡白子町で甚大な被害が出た要因》
① 地震・津波の発生が厳冬の夜中(新暦12月31日の午前2時頃)であること。
② 九十九里浜南部は、津波が高く(推定4〜5㍍)内陸深く浸入したこと。
一波・二波(最も高い)・三波と続いた。「・・・表にて大太鼓打ち候如く鳴り響き、一の波、続いて二三の波押し入り」とある。(「飯高家文書」九十九里町粟生)
九十九里中央部(木戸川)を境に、北部の被害は少なかった。(供養碑や記録類が殆ど無い)
③ 元祿時代は九十九里浜のイワシ豊漁期であったこと。
 九十九里浦で多数の溺死者が出た背景の一つに、地曳網漁の成長が考えられる。元禄時代は「イワシ」の第二豊漁期であった。海岸納屋には漁民(水主)達が、何時でも出漁できるよう寝泊まりし、厳冬の真夜中に津波に飲み込まれている。当時紀州からの旅網漁民も多数犠牲になっている。もちろん、地曳網船や漁具などは壊滅。津波により運ばれた塩土は田畑を被い、幾年も耕作できない状況が続き、農民や漁民の生活はかなり苦しかったことが古文書などから読み取れる。
④ 白子町の海岸線は約6㎞しかないが、中央部に南白亀川が流れていること。しかも、この川の周辺は低湿地帯をなし、津波が内陸奥まで浸入し易い地形であったこと。白子町関小母佐の池上家文書にも書かれている。
⑤ 慶長地震・津波(1605年、M7.9)、延宝地震・津波(1677年、M8)の被害は、九十九里浜でも相当大きかったものと推定されるが、時の経過にともない地震→津波という教訓が忘れ去られていたのではないかと思われる。

「稲むらの火」の教訓は  幕末の1854年に起きた安政大地震による大津波襲来に際して、醤油屋当主・浜口梧陵は稲むらに火をつけて高台に村人を誘導して、事なきを得ました。この話は現在の和歌山県広川町での実話であり、地元小学校の教師中井常蔵が作品化し、「稲むらの火」として教科書に採用され、有名になった。また、浜口梧陵は銚子でも醤油屋を営むなど千葉県にもゆかりの深い人物です。
 この浜口梧陵の評伝を『津浪とたたかった人 浜口梧陵伝』(新日本出版社刊)を著した戸石四郎氏は、今回の東日本大震災にあたって、この「稲むらの火」の教訓を次の様に強調しています。
 「稲むらの火」の教訓こそ最高の津波対策であることを強調したい。今回の津波は、10㍍高で二重の防潮堤などにも一定の役割はあるが、図り知れぬ自然の猛威に対し、万里の長城のように、全国の海岸を高い堤防で囲うことは不可能である。それにも増して「即刻高みに逃げる」という「心の防波堤」を築くこと、その教育と訓練が大事であろう。もちろん、歴史の教訓を今後のまちづくりに活かし、高台への集約化や、堅固な5階以上の建物の適正配置を図るなどが求められよう。さらには梧陵が唱え実践した「住民百世の安堵を計る」防災・復興政策とその実現を切に望みたい。それが今次被害者の方々への、私たちの心の鎮魂碑であり責務だと考える。